昨日、Youtube動画で高名な仏教学者であり、真宗僧侶である佐々木閑師の仏教講話を拝見した時、つい先日ブログ(悟りの郷理1月29日)に書いた真言密教僧侶、松波龍源師の話を思い出し、ハハ〜ん仏教講話というものは、先んず導入部として『生老病死』が説かれるものなんだな〜…と、あらためて思ったのだ。
たしかに仏教入門書を読んでも、釈尊出家の動機が『生老病死』で、その逃れられない一切皆苦からの解脱が仏教である・・・という解釈のうえでの仏教講話になっているようであった。
まぁ、『生老病死』というのは『諸行無常』をより具体的に解りやすい言葉で説いた、誰の人生にも避けることのできない現象という意味での『一切皆苦』であり、仏教ではそこをどう解決するのか・・・という視点であろう。
ただ、このお二人の型通りの仏教講話の始まり方に、私なんかは若干の違和感を抱くわけで、片足半分棺桶に突っ込んでいる世代はともかく、『生老病死』の『老病死』をいまだ実感を持てない世代の者たちには、やたら悲壮感漂う仏教の物言いに何か隔世感を抱く。
私も29歳の時、坐禅に出逢い足掛け10年間に渡って寺に通ったが、寺でも実生活においても『生老病死』云々することは一度もなかった。
『無』に参じる『禅』なのだから、まぁ当然といえば当然であるが・・・。
それよりもなによりも、禅が『己事究明』であるということを聞けば、それが自分にとってどういうモノであるのか、当時は解らずにいたが、少なくとも『生老病死』よりはそれなりに納得いく説法ではなかったかと思う。
ただし、『生老病死』の『生』というのが、『私にとって生きる意味とは何か?』という『苦悩』だというのであれば、話はまた別だ。
釈尊は35歳で悟ったとき、自己の悟りを『生老病死』から説き始めたが、45年後の80歳で亡くなる時、『自灯明・法灯明』と弟子たちに最期の説法をしたという。
それはつまり、仏教とは『一切皆苦からの解脱』ということより、『真のアイデンティティとはは何か』という事が仏教の普遍的で本質的メッセージなのではなかったか…と思うのだ。

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