私はいまだに詳しい事情は知らないが、生みの母親、育ての母親の間に育ち、父権の介在しない家庭で育った・・・ということもあり、そういう意味では良くも悪くも『放任』的環境だったわけで、貧しさからくる制限はあったものの、今で言うパワハラのような上からの押さえつけというものが、一切ない環境で育った。
そういった一因があってか、いかなる分野の『戒律』であっても、『戒律』という言葉と出会えば自然、距離を置くスタンスを保つ人間であったように思う・・・。
しかし、今思い返せば・・・という次元で回想すると、小中高を通して唯一『体育』の時間というのが、私自身を『思いっきり解放』することのできた時間割であった事を思い出した時
『体育=スポーツ』の学びの中で、自然スポーツ・ルールの範囲で自分の持つ身体的エネルギーを全力で発散できる、何の遠慮もなく没頭できる・・・というところに私は大いに魅かれた。
だから、中学時代は冬はスピードスケート、夏は柔道クラブ活動に汗を流したが、先輩や指導者が無いに等しいクラブ活動であったので、正直学ぶ事は少なく残念な時間を過ごした為か、高校時代はブラスバンドに参加し、スポーツからは遠ざかることになった。
スイスに渡り45歳の時、バトミントンを基礎から学び、50歳で転職した引越屋時代の15年のブランクはあったものの、定年退職を機に再開して8年になるから計13年のバトミントン経歴があり、私は根っからスポーツ好きを自認している今日此の頃、スポーツを通して学ぶ諸ルールから、仏教の『戒律』まで無学ながらに考察してみた。
世の中にはびこる『いじめ』や『各種ハラスメント』・・・というのは、『やってはいけない事・やらなければいけない事』という、言わば『戒律』の土俵の場数の有無が案外重要じゃないかなぁ〜と思うが、話がいきなり飛躍するのは、そのベースがスポーツ活動で大いに養われた体験があるからなのだ・・・と思う。
スポーツというのは、目的がシンプルで『やってはいけない事、やらなければいけない事』というのが明瞭な中、チームプレーのスポーツでは一層その『戒律』は重要で、その土俵で培われた『戒律』は他の『社会的土俵』にも活かされる体験となっているのは間違いないと思う。
そう考えると、スポーツというのは単なる勝敗事ではなく、『人間関係における戒律』の学びであり、人間教育の視点から観てもフェアープレイ精神の普及は人類の未来を展望するうえで非常に重要事項であると思う。
今回の『エプスタイン・ファイル』に出てくる、途方もない金と権力を持つ者たちの土俵というのは、『戒律』など無い・・・と勘違いしそうな場で起こった悲劇で、スポーツはもちろん、修行という場数を踏んでこなかった、金でなんでも動かせると大いに勘違いした未熟者の出来事でなかったか、と思うのだ。

禅の修行でも、『戒・定・慧』と普段の生活における『戒律』がベースになっている事を知り、また般若智に至ればことさら『戒律』云々することなく『日々是好日』となろう・・・。
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