どの著書であったか、松岡正剛さんの本に『釈尊の悟りとは、つまるところ縁起である…』というような ことが書かれていて、断言している彼の確信に衝撃をおぼえたものだ。
というのも、仏教書を読むと『十二縁起』に行き当たり・・・
『比丘たちよ、縁起とは何か。
比丘たちよ、無明により行が起こり、行により識が起こり、識により名色が起こり、名色により六処が起こり、六処により触が起こり、触により受が起こり、受により渇愛が起こり、渇愛により取が起こり、取により有が起こり、有により生が起こり、生により老死が、愁悲苦憂悩が生じる。 このようにして、全ての苦蘊は生起する。』
『十二因縁の支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個であり、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ること・・・』 ウィキペディアより
『縁起』の説明にはだいたいこのように書かれていて、私はさっぱり理解することができなかった。頭で分析したこの説明で、『悟りの当体である縁起』が解るのであれば、誰も苦労はしなかったであろう・・・と、私はこの『十二縁起』論を肯うことができなかったのである。
だから、『縁起』という言葉が長い間好きではなかったし、このような理論?が『悟り』であるとは受け入れることが、私にはできなかったのである。
それがいつの頃からであったか?『考えるな、漢字ろ!』に開眼したあたりであったであろうか、自分なりの解釈というのができ、以来このブログに『縁起』をテーマにした記事をたぶん10本ぐらいは書いたであろうか・・・? その一つがこれ ⬇︎⬇︎
『縁起』について、自分なりに適当な事をあれこれ書いてきた。
そしてその都度、適当具合が深まって来るような気がしているのだが・・・。

今、レマン湖畔の街、VeveyのMusée Jenischでの浮世絵展より『石川五右衛門』の図
写真左上に和歌がみえるが
『 石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ 』
・・・とあって
なかなか意味深で、そこに私は『十二縁起』ならぬ『自由に縁起』を読取り、我らが先人の日本人諸先輩方の心意気に敬意を表するのである。
『縁』・・・『自ずと示された道』
『起』・・・『自ら歩むことで至る』 という事で、それは各人の自由、それが自然の掟
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