まるで私の日本旅行を狙ったかのように、アメリカのトランプ政権はイランを攻撃、北海道に滞在していた一週間のうちに戦況はより深刻さを増し、日本だけではなく世界中のガソリン価格を一気に引き上げ経済的打撃を与え大問題に発展している。
私は一昨日、北見(女満別空港)から東京に飛び、数時間一足先にスイスから東京のホテルにチェックインしていた相方と合流。
ここ数十年間、一週間以上相方と離れて暮らしたことがないせいか、互いが互いのペースメーカー的役割を果たしているようで、久々に会うと調子が正常に戻るような気がしがてホッとした。
東京は一見したところ、普段と何も変わらない様に見えるが、トランプが巻き起こす暴風雨にいまにも巻き込まれそうな様相、それでなくとも問題山積みで今にもコケそうな日本を思うと、のんびり旅をしている自分がなんだかなぁ…、まぁどうしょうもないけど…。
しかしそれはそれとして、『東洋自分なり研究所』所長の私にとって、この旅の初っ端で、もう一方の重要『問題』に今更ながらという形で対面した事に気づいた。
それは例えば私の姉の息子と娘は、それぞれ教師と保健婦となり共に公務員で、生活はそれなりに安定し、所帯を持ち一見何の問題もなく暮らしているようで、彼らの母であり叔父である、私ら姉弟の幼少期の貧乏生活体験などは、彼等にとって時代も次元も違う昔話以上でも以下でもない事柄なのだ。
まぁ、それはそれで『結構毛だらけ猫灰だらけ・・・』状態で何の問題も無いのであるが・・・、そんな状態から一体、禅で言うところの人生における重大な『問』というのは、彼らの場合どのようにして起こるのであろうか??と思った時、
私は『問』を持つことの重み…なようなモノを感ぜずにはおれなかった。
実際私自身にしても、5年の坐禅修行を経ても気づかず、ニューヨークへ渡ってようやく自己に『問』のないことに不信を抱き、真剣に禅と向き合う必要を感じて再び円覚寺に帰って参禅した…という経緯があった。
そうしてみれば、『悟り』よりはるか以前に『問』の自覚が禅修行には重要ではないか。
『経典のしおり』の最初のところに、『仏教(と)会い難し、今ここに会う…』といったような文句があったが、その真意は『問』との出会いの難しさを表現しているのでは。

雪景色の北海道から、一気にこの夜景・・・『問』と人間の『間』について思案の図
法華経に常不軽菩薩が登場して、出会う人誰彼なく『アナタは仏様となる方、決して軽くみなしたりしません…』と言って回り、『余計なお世話だ ! 』として、人々から忌み嫌われたそうだが、たしかに何も問題などないと思っている人には余計なお世話なのだ。
常不軽菩薩にしてみれば、こう言って回るのは、人間には『問』のあることを気づかせようとする慈悲心の働きで、菩薩なりの『つぶやき・ぼやき』だったのではなかったか。
この記事が心に響いたら、応援クリックをお願いします!