昨日(3∥25)は、三十数年ぶりで井の頭公園の桜を見ることが出来た。
やはり桜は日本人”性 ”を否応なしに喚起するものなのだろうか?それとも文化的洗脳なのか『はかなさ』や『もののあわれ』のようなモノを感じさせぬにはおられないようだ。
本当に『あっぱれ』なほどに鮮やかに華やかであるが、それはやがて数日で散る運命が、『あわれ』と対になっている事を知っているからこその『愛しさ』であろう・・・。
そう思った時、一般では『愛』と言っているような事柄を、仏教では『慈悲』と言い表すところが素晴らしいと、思える自分を観じている。
むかし私は仏教がなぜ『愛』と言わずに『慈悲』という言葉を使うのか、長い間不可解であった。
そういった基本的な問題というか、疑問は禅の公案(禅問答)のように強く意識することはなかったが、案外心の底辺ではそれこそ心底解答を欲していたのではないだろうか。
幸い私は禅寺で長く修行の『時』を持つことができたが、『寺』というのは『基本、生死の問題』についてド『土』・スン『寸』=『寺』と腑に落ちる(不二に落ちる)場で、腑に落ちるまで修行する場であることが解れば、『生死が時』であり、『生死が詩』でありと、これらの文字に『寺』が寄り添っていることに納得する。
『諸行無常』が『自他不二』の現象であることに気が付いたとき、『慈悲』が縁起すると思えば、すべての基本は『生死』を見つめる事にほかならず、『悟り』とか小難しい話ではないのではないだろうか・・・

『 桜花 諸行無常の 琴線の 音色あざやか 耳を澄ませば… 』馬骨
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