公案というのは、『禅問答』のことで、問に対する答えが心底自分のなかで腑に落ちる・・・まで決して問うことを止めない事である、とは馬骨解釈で、本物の禅僧がどう説明するのか私は知らない。
しかし、その禅僧にしても『合掌』を日常的にしょっちゅうしているが、その意味を人に問うのを、私は一度も観たことが ない。
大昔に一度『右手は仏様、左手は自分で、それが一つになることが、合掌の意味です』・・・というようなことを説明していた坊さんがいたような記憶がかすかにあるが、それは、瞬時に右の耳から入って左の耳からスーッと出ていってしまった。
それは多分、その坊さん自身が本当には解っていなかったからではないだろうか・・・
なんで今更、『合掌』問題…と自分でも思うが、それがこの旅での効用でもあったでろうか? この訳がわからないくたびれ旅は、観方によればある意味『接心』のように最後は自分なりに切羽詰まったところがあったが、 自分の『合掌』がようやっと腑に落ちた・・・というより『不二落ちた』気がした。
そうして観ると、この旅で見る沢山の仏像の『合掌』は、『悟り』丸出しではいか。

吉野の蔵王権現さまの憤怒の四股ふみ
『権現が ドスンと地球の 四股踏めば ぎゃふんと我の 目が覚めるかな…』 馬骨
あまりにも丸出しだと、かえって見えないもので、ドスン!の一発が人間には必要なのかも、また相撲さんの『四股』には地鎮祭としての意味があるそうで、それが権現さまの『四股』であれば最近の地震を鎮める力ともなっているであろう。
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