
『 私は日本で5年間、禅の師のもとで学びました。
その前は写真家であり、人々を助けたいと思って鍼灸を学びました。
偶然にも、私の鍼灸の先生のうち二人が禅の実践者でした。
少しずつ禅にのめり込み、ついには写真の仕事も含めてすべてをやめてしまいました。
人生の次の章へ進む前に、まず禅を学ばなければならないという感覚があったのです。
禅とは何でしょうか?
それは言葉を超えたものなので説明するのが難しいのです。
私たちの世界には多くの制約があります。
夢と現実の間にも、そして現在の現実との間にも制約がありす。
しかし、あらゆるものを取り払い、すべてを捨て去ったとき、
どんな瞬間にも私たちと共にあり得るものが一つあります。
それが『静かな心の平安(Sérénitéセレニティ)』です。
私はローザンヌへ来ましたが、NYでは写真家として生計を立てられないと思ったからです。
そしてヨーロッパの方が居心地が良いと感じました。
その後、生計を立てるためにいくつかの日本企業で働き、昨年(2017年)退職しました。
これらの年月、私は禅とともに生き、禅に助けられてここまで来ました。
今、私は自分の情熱にもう一度チャンス(自分なり禅の普及)を与えたいと思っています。』
(2018 8/5 HumLausanneより)
上記の写真と文は、2018年の8月のある日、当時いつも走っていた公園でカメラを手にした女性に呼び止められ、Instagram中心に活動しているhomlausanne(Humans of My Lausanne) :『ローザンヌに縁のある人々のストーリー』を趣旨にした写真とインタビューを受けた時のものです。
タイミングとしては、2017年に引越屋稼業を定年退職した翌年のことで、完全に自由になった自分に戸惑いながらも、長年温めてきた『禅の普及活動』をどうやって実現すればいいのか・・・というような事を考えながら過ごしていた頃なので、突然のインタビュー(生まれて初めて)に、つい本音を吐露してしまった格好になりました。
今朝、久々にグランドを走っている時、何故かこのインタビューの時のことを思い出し、帰宅して改めてその写真と記事を読んで、エッ!と思ったのは、『どんな瞬間にも私たちと共にあり得るものが一つあります。それが「静かな心の平安」です・・・。』というような事を私が言った・・・(らしい)事です。
インタビューは私のたどたどしいフランス語と英語のチャンポンでしたが、インタビュアーの女性は根気よく私の話を聞いてくれていました。今読むとこんな事いったのかなぁ…(いい意味で)と思うのですが、この女性が勝手に良いように翻訳してくれたのかもしれません。
しかし、この一言に私自分自身が今日、大いに励まされたのです。
このシンプルな言い回し『どんな瞬間にもある一つのもの、静寂』・・・こんな表現の仕方、私はすっかり忘れていた、というか言っていながら気付いていなかったのかも…。
まぁ、どうということもないこのメディアによるインタビューと写真であるが、私にとっては『Mr.Zen』として記念碑的な機会を与えてくれた有難いモノとして記憶するだろう。