『縁と円』、相変わらずの駄洒落『爺ィ』・・・と、自分で突っ込みを入れているみるが…
すでにそれについては、5年も前にブログ記事にしていた。 ⬇︎⬇︎
しかし、それは歳月を経て私の中では駄洒落でもなんでもない、立派な佛語として、他の人にも納得しやすい『縁起』の説明として『円起』はなかなかな熟成ぶりを見せてくれた。
『縁』というのは、その繋がりの意味が解って初めて『縁起』と言えると思うが、それって『円』を考えた時、必然的に中心点の位置に値する物事の『意味合い』が解った時に『円』を描くことが可能になる現象『円起』と同一ではないかと思うのだ。
そういえば私がお世話になった寺も『円覚寺』という名前だが、禅仏教では古来よりそういった捉え方がなされていたのだろう。
以前にも書いたが、私にとって『縁起』という佛語は最も苦手な単語で、仏教書に書いてある『十二縁起』説明ではサッパリ解らない佛語で、今思うと『屁理屈』。
不立文字、教外別伝、直指人心の禅の立場から言うと、凄い『屁理屈』だと思う。

金沢の郊外、河北市にある鈴木大拙の親友『西田幾多郎記念哲学館』にて(2026 4月)
デカい円相図が入口にあり、『 心月 孤円にして 光 万象を呑む 』の書があった。
我々の周辺には『縁』は至る所にあるが、そこに何かがなければ『縁』は『起』らない。
禅僧が描く『円相』も、中心が解らなければ『縁』は無い・・・ということか。
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