3日前の日曜日、相方の情報によりモルジュ村の教会専属のパイプオルガン奏者が若い男性(27歳)に代わり、コンサートが催されるとのことで行ってきた。
教会の二階に設置されたパイプオルガンを演奏するが、カメラが据えられて、下の階の聴衆は大きなスクリーンに映る演奏者がどのように演奏するか観ることが出来るようになっていた。これまでのパイプオルガン演奏会だと、演奏者の背中が見えれば良い方で、教会によっては演奏者が全く見えない構造になっている教会も多く、今回初めてパイプオルガンを演奏する人が手足を用いて演奏する様子を克明に観ることができ、より音楽に没入ことができたように思う。
パイプオルガンのより荘厳な低音部は足で演奏され、高音から中音は上中下三段の鍵盤で、手で演奏されているのを目視しながら音楽を聞いていると、私が聞いている『観音』というのが音楽家によって意識されているのかどうか?・・・ということが気になってきた。
パイプオルガンの荘厳な低音というのが、『空』の部を演奏し、その他の音で『色』部を演奏しているのだろうか・・・などと妄想しているうちに、そもそも『音楽』というものが、『空』への覚醒を求めているのか、どうかということが気になりだしてしまった。
それというのも、昨年Youtube動画・ReHacQで見た『雅楽』をテーマに、プロデューサー高橋弘樹氏と作曲家でNetflixドラマ『将軍』の総合音楽アレンジャーをつとめた石田多朗氏の対談というのが、まさに、この私の問に『雅楽』という音楽がそれに答えていた事を思い出させ、帰宅してからその動画をもう一度じっくり観ることにしたのだ。
石田多朗氏は、作曲家として雅楽の解明に取り組んで10年になるということであるが、
『人間らしい感情とか、メッセージ性はまったくない・・・と思います。』
『雅楽は音楽になろうとしているのを、拒否している感じがする、と日本を代表する雅楽奏者の方がそうおっしゃっています…』などなど、
従来の音楽とは、全く何かが違っていながら、『雅楽が人間の、特に日本人の生き方に関係している…』と彼をして言わしめている点に、私は非常に興味を持った。
そういえば雅楽の中心になる『笙』という楽器の『ギュイーン・・・』と音がまさに立ち上がる感覚は、私が聞いている『観音』を象徴しているのではないかと思うほどで、
またこれら雅楽の楽器が中国や韓国などから輸入したのが、奈良や平安時代ということで、であれば、法隆寺の同じ敷地内にある中宮寺の例の『如意輪観世音菩薩』の『観音』に聞き入る佇まいの『半跏思惟像』と呼応するものがあり、雅楽が『観音』を志向しているという私の妄想は、案外的外れではないような気がしている今日此の頃。
であれば、『音楽』とは言っても、雅楽の方向性はまったくちがうのだから、石田氏が抱く感想は実に正しく、逆によくぞそこに気が付いた・・・と、私などは思うのだ。

その事があったからこそ、今回の日本の旅で、『笙を吹く天女様?』というのか『菩薩様』の姿が彫られた富山県瑞泉寺の釣り鐘の模様を意識を持って撮影した図
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