前回ブログで『雅楽』について書いたが、馬骨解釈によると、雅楽は『観音』の可聴化・・・という事になった。
であれば著名な雅楽奏者が、『雅楽は音楽になろうとしているのを、拒否している感じがする…』という感想をもらしたそうであるが、『観音』が『無』の境地ということであれば確かに、私たちが理解している『音楽』と『雅楽』とは一線を画するのは当然と言える。
そこで、考えるとは無しに『佛語漢字方程式』で『音楽』という言葉を佛語として解読すると、『音楽』=『無』x『舞』という方程式が弾き出された。
以前に『無』の字について書いているが ⬇︎⬇︎
辞書『新漢語林』による解字:もと、舞の字と同形で、人の舞う姿にかたどり、まいの意味を表したが、借りて『ない』の意味に用いる。
と辞書にあり、私は『無』がなんで『舞』なのか?・・・という謎を私の家にある楽器の琵琶を持って踊り狂う菩薩の絵に『舞』の字を貼り付けて、公案の如く参究すると

じつに馬骨らしい解釈が生まれたのだ。
『無』の字の上部は弦楽器の上部『弦を巻いて調音』する図であり、すでに『無』にチューニングを終え、『無』の時に聞こえてくる『観音』に歓喜の『舞』を踊っている菩薩が観えたのだ。
佛語はすべて『空・色界』の『もつれ・重ね合わせ』状態にあるが、そうしてみれば『音楽』というのも『色界』で楽しむ『音』もあれば『空界』で楽しむ『音』もあるわけだ・・・。
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