拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『悟痛』と覚悟

  禅修行における『足の痛み』については、禅のどの入門書にも書いていない事に…私は長い間疑問に思っていた。

  さすがの鈴木大拙も『痛み』については、全く『我関せず』の姿勢を貫き、時折、親切な坊さんが『痛くなくする工夫』みたいなことを

  解説している程度である。

  私にとっては『禅』といえば『痛い!』ことが、真っ先に説かれるべき事項であると…最初に坐って以来、内心ずーっと思いつつも

  しかし、その『痛み』について口にすることは恰も禁句の如く、あまりに低次元の事柄であるかの如く、誰も何も言わない事態に

  不可解な思いを抱いていた。

 

  この歳になって、『悟り』を人間工学的に考察すれば、『悟り』はこの足の『痛み』無くしては実現出来ない・・・というより

  『悟り』には『痛み』は絶対必要なのだと確信するに至った。

  多分、坐禅は『痛い』のがあまりにも当たり前であって、特に述べ説くべき事柄ではない・・・とされていたに違いない。

  先日30年ぶりに坐禅したとき、その『痛み』は私を坐禅をしていた時期に間髪を入れず戻してくれた。

 

  『悟り』に特化した禅の修行が何故『坐禅』なのか?・・・そこには坐禅における『人間工学』的『痛み』が

  最重要な役割を果たし、調身・息・心…の面においても、エゴである『我』から『無我』へ至る精神面の過程においても

  決定的な『激痛』ではなく、真綿で絞め殺す如き徐々に徐々に痛まる『坐』のもたらす『痛み』は

  高慢ちきな連中の鼻っ柱を徐々に削る方法としては他に類を見ない方法であったのだ。

 

  自分の事を頭の良い『エリート』と思い込んでいる奴には『坐禅』を徹底的にさせろ。

  それと、悪事を働いた犯罪人には『坐禅』を徹底的にさせろ・・・と思う。

  真人間になるには、一番よい方法なのだ。

  坐禅での『痛み』は、自己をして弱い人間であることを思い知らせ、他人の『痛み』に思いを致す人間にする。

  で、ある時点で『痛み』を超越した瞬間、『智慧と慈悲』を基軸に観自在に世の中を観る『悟り』=郷里に

  自分がいることに気づくだろう。 

  しかし、廬山は煙雨、浙江は潮・・・の詩の如く、『痛み』は『痛み』でそのまま、何年たっても有り難いことに『痛い』のだ。

        

          坐禅の『痛み』は『悟痛』である。孫悟空の頭にはめられた『輪っか』みたいなもので、仏が人に与えた工学的方法である。