拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『 南無 … 』の初期化

私はこれまで『色空』の『空』にとらわれすぎて、『無』の大切さをないがしろにした… 

 

『無』について考察すると、当然の如く『南無』の古(いにしえ)の教えに行き着く。

 

【「南無(なむ)」はサンスクリット語の namo(ナモ) に由来し
 「敬礼」「帰依(きえ)する」「身も心もゆだねる」という意味。

  つまり―― 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無観世音菩薩

  この「南無」はすべて、「私はあなたに帰依します」という宣言】・・・とのこと。

 

禅者である馬骨としては、『南無』はまさに『無』そのものに帰依する事・・・であろうか。

 

そう思うと、禅では確かに、やたらと『無』を主張している事を思い出した。

 

しかし、『無』の先に何があるのか?・・・とまで考え至ったとき、『彼岸』を思いついたが

娑婆ではよく『彼岸』の言葉は聞くが、『此岸』という言葉は全く聞かない事に気が付く。

 

そういった事情も何も知らないで、私は昔、禅修行を始めたが、

それって、此岸にある自分を、行き先のみえない彼岸にむかって『無の大海原』を数息観で坐泳する姿ではなかったであろうか・・・。

何のために泳いでいるのか解らないで、何度も溺れそうになるが、般若心経やら、四弘誓願、坐禅和讃とか、頭上から聞こえたり、老師の提唱や私の個人教授的、鈴木大拙の書に励まされたりしながら、また或いはそれこそ『無』になりながら『彼岸』に向かっていただろう。

 

『摩訶般若波羅蜜多心経』というのが、『偉大なる般若智への到彼岸』である事を知れば

『無の大海原』に彼岸に向かって飛び込む…のもまた一興。

 

        

 

     立ち上げる 南無の初期化の 般若智は 我を救わば 彼も救わる :馬骨

 

 

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『 力を貸してください … 』考

私の人生において、初めて『尊敬する人物』が『マハトマ・ガンジー』であったことは、我ながら今だに誇りに思える。

私が30歳の時(1982年)に観た、リチャード・アッテンボロー監督映画『ガンジー』に激しく心を揺さぶられた事を昨日のことのように思い出す。

何故あれほど、心を揺さぶられた・・・のか? 自分に問うて、自分なりの答を当時すでに持っていた。

それは直観的なモノであったが、『スピリチュアルな信念で、政治活動する生き様・・・』といったような、当時の自分からはまったく次元の違う、想像も絶する『道』を歩んだ人物がこの世にいたんだ…というような感慨であったように思う。

 

当時、禅修行初心者としてせっせと鍼灸専門学校と土日坐禅会に通う日々を送っていたが、『ガンジー』への尊敬の念というのが、その後の私の人生に何だかの影響を与えたか?というとはなはだ疑問で、彼の名前すら何時の日かすっかり忘れていたような・・・。

 

それが、2011年3月11日の東北大震災と原発事故が動機となって、スイスにいながら日本の政治に関心を持った時、『原発反対』と決起した山本太郎の活動を追う形で、それまでのノンポリを返上し、2012年の衆議院選挙で、60歳にして初めて投票に参加した・・・。

 

あれから14年の歳月が流れて、2026年今回の衆議院選挙・・・。山本太郎の政治活動を投票で応援してきて、選挙のたびにほぼ毎回落胆していたものだが、今回はまた一層の落胆、というか、病気で議員辞職した山本太郎の心中を思うと本当にやるせないが、一方で彼の精神のタフさを知っているつもりの私としては、何も心配していない、というのが本音だ。

 

  

    

 

太郎がいつも言う『力を貸してください!』・・・とは、私にとって法華経に登場する菩薩、

常不軽菩薩そのままで、『アナタはいつか仏に目覚める人です・・・力を貸してください!』と言っているのに等しく聞こえ、そしてそれはまた『茨(いばら)の道』にほかならない。

 

仏も菩薩も『慈悲と智慧』を深謀するもので、最も苦しんでいる人々に思いを寄せる『衆生無辺誓願度』が誓願の第一番目に来ていて、そこを山本太郎も言っているのだと思う。

今回の選挙結果というのは、そこの『認識のズレ』にあるのだと思う。

 

 

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『仮想・現実』と禅

いつもレベルが高すぎて話の半分も解るかどうか? で昨日は久々に彼らの動画『イチゼロシステム』、今回のテーマ『シュミレーション仮説 "この世界は現実ではない"』を観た。

 

『仮想現実』という言葉は、映画マトリックス(1999年)で衝撃を受けて以来、人々にとってのっぴきならない現象として、またあれから26年の歳月で『IT技術』が革命的に進展した現在、ますますのっぴきならない現象として私たちの日常生活にほぼ完全に侵入している。

 

1999年当時、私の生活にコンピュータはもちろん、スマートフォンなんかもなかった・・・なんて、今から思うと信じられない、というか末期アナログ時代に生きていた。しかも、そんな中でも私は『禅修行』した者として、アナログ中のアナログ生活にどっぷり浸り、佛的【仮想・現実】と日々対峙していたから、映画マトリックスの【仮想現実】ストーリーを観せられた時の衝撃は、一般の人とはまた一味ちがった衝撃であったと思う。

 

それはそれとして、『AIやIT』関係者、科学者たちが『バーチャル・リアリティ』を考える時、その視点は一様に自己の外側に向かっている・・・ことが、何だか滑稽な気もする…。

我々仏教徒・・・(と言っても色々あるが)にとっては佛的『仮想・現実』という問題は2000年以上も前から永遠の課題として対峙してきた問題であることを思うと、いくら優秀な科学者、技術者といえ、自分の国の最も深淵な一面にカスリもせずに、成人した不幸は誰のせいであろうか。 ・・・と思う今日此の頃。

 

『仮想現実』という言葉に対抗する言葉として『覚醒』というのを考えられるとした時、脚下照顧ではないが、日本文化の足元を観れば一目瞭然であるのに、一旦『科学』となると、視点のベクトルは自己の外側だけになり、それに使う言葉も横文字アルファベットで、『漢字方程式』など思いも寄らないのだ。

だいたい、映画マトリックスで流れる緑のマトリックス・コードという文字列はカタカナ、数字、反転したアルファベットなどを上から下に流しているが、本来は漢字と平仮名が流れるべきであったであろう・・・(馬骨論)

 

 私ら夫婦の三十数回目の結婚記念日パーティの図・・・(なわけないだろ!フェイク‼️)

 

この写真、真っ赤な嘘(フェイク)で、相方が『AI 写真アプリ』で普段着の二人の写真を入力して出てきた、驚きの出来栄えに私はビックリ、相方は『私もお化粧すればこんなものよ!』と物凄い気に入った写真で、心底『フェイク』という言葉を実感させられ、衝撃を受けた一枚であった。

 

今日このテーマで何か書いてみようと思ったのは、実はこの『フェイク写真』のせいもあり、こうした形で私たちの日常生活に『仮想・現実』が忍び込み、うっかりその気にさせられてしまう、ということを自戒もこめ、年寄の遊びの一つとしてありかも・・・とも思った次第。

 

 

 

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不退転の『赤いピル』…

誰も私に問うことのない『禅とは何か?』・・・という問

仕方がないから、私は自分に問うては、自分で答えるのだろうか。

 

しかし、自分に問うと言っても、切羽詰まった感じで問うたわけではなく、問うた覚えはあまりないのにも関わらず、『不退転の赤いピルを飲む瞬間』というものが自分にも、確かに有って、それというのは、『禅道』を行くべき者にとって、必要不可欠の絶対条件であった事に今頃気が付いた、というわけのようだ・・・。

本当に私はボンクラ(盆暗〜博打で盆の上の勝負に暗い意味=ぼんやりして物事の見通しがきかない人のこと)であると痛感するが、それを補うように、それに気が付くまで生かされた我が身に感謝するのみ。

例え愚脳であっても、『還暦スキャン』システムという生命の働きは機能しているようだ。

 

私の禅修行期間は、大雑把に前半5年と後半5年に、結果的に分かれた形になる。

前半というのは、鍼灸専門学校に入学(29歳)することで、仏縁というのか、居士林(円覚寺)で修行する縁ができ、土日一泊の泊まり込み坐禅会に、渡米(New York)する33歳までの期間で、修行内容はひたすら数息観に打ち込むだけの修行で、これで私は十分であると判断し、鍼灸専門学校を卒業した翌年、写真家としての長年の夢であった渡米に踏み切ったのであった。

 

 

そのNew Yorkでの様子というのは、この ↑ブログ記事と、何枚かの写真に詳しいが、

結果的に中途半端な禅修行は、永住するつもりであった New Yorkで『Walking Dead』の世界に飛び込んでしまった事実に戸惑い、私は精神的な大危機の『Final ?』のドツボに落ちてしまったのだ。後に当時のNew Yorkでの写真を『Good-by New York 1986 』と題してまとめたが、それでも当時自分に何が起こったのか?さっぱり解らなかった。

 

兎に角、それが動機となって後半の禅修行が始まることになったが、今思うと、『Good-bye、New York』と別れを告げた決意こそが、私にとっての『赤いピル』であったのだ。

 

この『還暦スキャン』することなしに、自分の人生の中で精神的危機があったなどとは気が付く事はなかったのではないだろうか。

それもこれも佛語漢字方程式による『サトリ』の語が『悟り&郷理』の『重ね合わせ・もつれ』の法則により、『郷理』に自ずと牽引され、気が付かされて自ら道を正す機能『HI(般若智)システム』の働きをみる・・・ことであった。

     

     

60歳で迎える『還暦』は、仏性が人間に与えた最大の『覚醒システム能力』ではないか。

 

私が尊敬してやまない、鈴木大拙は『自分の過去を顧みない…』姿勢を崩さなかったそうだが、その点にだけは私は異を唱える者で、一重に『サトリ』は『悟り&郷理』の性質を持ち自分の人生を『還暦スキャン』することで、『郷理』と絶えず繋がって『悟り』を促す仏性の働きをそこに観るからにほかならない・・・からだ。

人生の後半をこうした探究に明け暮れ、今の現世で起こる良し悪し事を断じるも遊戯三昧…

 

 

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『トルー・マザー報告書』にみる呪われた70年

 一昨日1月31日に、デモクラシータイムス提供のYoutube番組『TM特別報告書・自民党に巣食った統一教会』を見て、震撼し、翌日2月1日のNHK『日曜討論』で各政党の党首が集い討論する予定が、首相の高市早苗氏が30分前にドタキャン・・・のニュースを見て何故か腑に落ちた感があり、それはまた松本清張の原作『砂の器』の映画を観た時のような複雑で悲しい気持ちになったのである。

統一教会と自民党の関わり・・・というのは、TBS NEWS DIG Powered by JNN 提供のYoutube動画『安倍3代と統一教会 半世紀余りの"組織的関係"の原点』に詳しい。

 


 

 

私のように歴史に疎い人間にとって、そもそも狂ったカルト教団が何故、国会議員にまでその影響が及んだのか?・・・しかも、韓国で発生した統一教会がなんで日本の政界にかかわってきたのか・・・というあたりが不思議で調べると

 

[冷戦構造・朝鮮戦争] ➔ [反共イデオロギー] ➔ [韓国:統一教会誕生]1954年 ➔ [日本進出]笹川良一と接触(勝共連合)1959年 ➔ [保守政治家・岸信介と接触]教団を優遇 ➔ 見返りとして[選挙協力・票の動員] ➔ [霊感商法・高額献金] ➔ [被害者家庭の崩壊] ➔ [社会的怨念の蓄積]2022年安倍元首相銃撃事件 ➔ 韓国で韓鶴子(True Mother)逮捕 [事件・告発・内部文書] ➔ [現在の政治不信]・・・まぁ、ざっとこんな一連の流れであろうか。

 

統一教会の教主・文鮮明は日本人信者に対し、『日本は罪の国であり、贖罪(罪滅ぼし)国家(イブ国家)として、韓国(アダム国家)に仕え、献金や寄付で過去の罪を清算しなければ救われない・・・』というような神学ストーリーをでっち上げて金を巻き上げていたらしい。

 

事実は小説より奇なり』を地で行ったこの物語は、果たして・・・

 

山本太郎が国会を称して『永田町の魑魅魍魎・・・』としばしば言っていたが、それというのは、このあたりに根源があったのだろうか、と思う今日此の頃。

有権者の皆さん、日本の国政にこのような『魑魅魍魎ちみもうりょう』を放置してよいでしょうか? このあたりをしっかり考えて投票しましょう。

 

 

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『ゾンビ〜現象』にみる『自縛霊』

『スイスにいるんだ…オレ?!』って、ふと気が付く時が、たま〜にある。
 
先日もあって、久々に我が愚脳のオンボロ『還暦スキャンGPS』に、『生まれてから今日までの移動状況』を入力してみると、面白い現象が観えてきた・・・。
 
最近『悟りは郷理』・・・なんて言って、人様には『帰郷』を促すような事を言っているが、現実の己は、極東の生まれ(北海道・北見)・・・ということもあってか、東京〜神戸〜ニューヨーク〜スイスと、西へ西へと知らぬ間に移動していた。
結果だけみると、まるで西方の『極楽浄土』を目指していたような?・・・
 
極楽浄土:仏教において阿弥陀如来が西方に住むとされる、苦しみが一切なく、全ての願いが満たされる理想の浄土(清らかな世界)(by Google)
 
まぁ、そんなことはないだろう…と熟考してみるに、そういえば一理ある、というか。イヤイヤ、思い当たる節が大いにあるかも・・・と思い直した。
 
高卒して、東京に向かい離郷するまでの私は、目に見えない宿命のようなものに支配され、『地縛霊』にがんじがらめにされ、それに必死に抗(あらが)っていたような十代を過ごした。 当時は自分の気持を言語化する能力もなかったし、そもそも事態を分析することもできなかったのだから無理もない・・・。だからかな、今頃せっせとそれをしているのだろう。
 
私の郷里、北見からオホーツク海が見える網走まで、わずか45Kmだが、車のない少年時代の行動範囲は実際10Kmもあったであろうか。周りを低い山がとりまく北見盆地が私の郷里で、視界を遮らない海辺に行くことは、わざわざ汽車に乗って行く遠い所であった。
 
だから今思えば、高卒後『東京』という名の『西方』に向かうことは、私の人生において青天の霹靂のような出来事であったと言える。
 
その意味では最初の『地縛霊』からは解放され、東京から神戸に移動し牛乳配達をしながら写真学校に通った時代は、実に晴れ晴れした気持ちであったことを昨日の事のように思い出す。
 
しかし、『地縛霊』からは逃れたものの、『自縛霊』からはいまだ解放されていなかったということなのか、神戸から東京に鍼灸専門学校入学する形で『禅寺』との、私にとって奇跡とも言える『縁』に恵まれた。
もちろん当時は、自分が『自縛霊』に取り憑かれていたとは全く気づく事もなく・・・と、ここまで書いて、『自縛霊』と『霊』とは書きましたが、私が幽霊みたいな『霊』を信じているわけではない、ことを一応おことわりしておきますが、太極的にみた『道』ということでは始めは誰でも『自縛』する時期を持つわけですから、それを『自縛霊=自我(エゴ)』と言ってもまぁ、間違いではないと思います。そして確かに眼に見えない力(ちから)で、自我(エゴ)は自縛するわけですから・・・。その意味では『自縛霊』というのは正解のような。
 
その『自縛霊』に対して、禅寺で学ぶ、『坐禅』やら『読経』やら『作務』、和尚による『提唱』のようなもの、つまり禅寺での修行自体が、その自縛霊からの解放に全力を傾けて援助してくれているわけです。
 
まぁ、そういうように考えると、西洋社会が産んだ『ゾンビ〜現象』というのは、東洋が産んだ『禅』の表裏一体の現象ではないだろうか・・・と私は今思う。
 
『ゾンビ〜』のように『地縛霊』でなおかつ『自縛霊』に取り憑かれ、地上のアチラコチラを目的もなくウロウロする現象というのは、本当は『禅』のような『地・自縛霊』から解放してくれる『道』を強く求めている姿・・・なのではなかろうか、などと思ったりしている。
 

   17歳の高校生の私。『地縛+自縛霊』に取り憑かれながらも抗う図
 
 

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『悟りの 郷(サト)理 』論

今日のこのタイトル・・・、無学な者ほど、いっぱしの学術的『理論』風、術語を弄ぼうとする自分がカワイイ…というか笑えてくる今日此の頃。

 

現代の博覧強記を自認しているであろう、読書家で、頭の切れる青年感を出している深井龍之介…(本名なのか、自称か?)自身がCEOの株式会社COTENが提供するYoutube動画『歴史を面白く学ぶコテンラジオ』番組で、5回に渡り仏教を縦横無尽に説く真言密教僧侶、松波龍源師の仏教講話を拝聴した。

その話に耳を傾け、学びと刺激を受けた事から今日のタイトルとなった。 

 

①仏教の全体像 ②無我(空)について ③唯識 ④余剰・三句 ⑤六波羅蜜 ・・・

理路整然と説き明かされる仏教論・・・それでも解ったような解らないような難解な仏教。

とにかく釈尊が悟りを開いて仏教が起こってから2500年の歳月が経ち、異口同音に語られ、創作された仏教用語を、悟り以前の人間が理解するのは容易では無い…事をあらためて知らされた思い。

それでも、語彙の定義に厳格な龍源師によって語られる仏教の第一義は、『抜苦与楽・離苦得楽』であり、確かに仏教を入門書から学び始めると『釈迦の出家』の動機『四苦八苦』という辺りから説き始められる・・・。

 

そういった仏教史の流れの中で、早くも6世紀に『達磨大師』が出現し、『不立文字・教外別伝』を打ち出し、小難しくなった仏教理論、経典の類を『坐断』し、『直指人心・見性成仏』の禅を打ち立て、それまで仏教経典を後生大事に死守していた僧侶達の度肝を抜いた。

 

それはさておき、龍源師も認めている仏教第一義『抜苦与楽・離苦得楽』を基本とした仏教論を聞いていて、私が思ったのは、仏教の第一義は、実はそれではなく、『抜苦与楽・離苦得楽』を第二義的な入口とした、禅で言うところの『見性成仏』であり、一般に言う『アイデンティティ』の『直指』、それこそが仏教の第一義なのだという事であった。

 

であるからこその『悟りの郷理』論で、あらゆる人間にとって『ホームベース』となる佛語的『命題』(命が探究する根源的テーマ)なのだと思う。

臨済禅師は『無位の真人』と言い、道元禅師は『仏道を習うというは、自己を習うなり…』といった表現で、『アイデンティティ=自己同一性』の帰着する処を言明したことは、禅の最も素晴らしい点ではなかったか。

 

一般に『悟り』というと、何もない処から『覚醒』する、と捉えられるが、そうではなく、山本太郎の消費税廃止論ではないが、『無い処から取るな、有る処から取れ!』と同じように『悟り』もまた、『持って生まれた生命こそが郷理』で、そこに帰る事が『悟り』で、帰る処が『郷理』ということで、難解とかそういう問題ではまったくない、ということだ。

 

 本日、ジュネーブ領事館事務所で衆議院選挙『在外投票』してきましたの図(でもないか)

 

 

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