拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

悟次元の郷

昔、三十年以上前読んだ鈴木大拙の著書『Living by Zen(禅による生活)』に蘇東坡(ソトウバ)(11世紀北宋の詩人)の漢詩が掲載され、大拙はそれを悟りの境地を詠った詩として紹介していた。

 

     ー 廬山は煙雨 浙江は潮 未だ至らざれば 先般の恨み消せず

       到り得て帰り来たれば 別事なし 廬山は煙雨 浙江は潮 ー 蘇東坡

 

調べると、廬山(ロザン)も浙江(セッコウ)も中国では風光明媚なところとして有名な地名…とのことであったが、詩の内容は何のことなのかサッパリ解らず、後に何度もこの本を読み返すたびに、この漢詩の所でなんとも言えない、魚の骨が喉にひかかったような気分で読み進めるしかない自分が情けない気持ちにおちいったものだ・・・。

 

風光明媚といえば、中国の廬山ではなかったが、後に縁あってヨーロッパで最初に行った地、スイスのローザンヌで観たレマン湖は私にとって生涯の『風光明媚』となったわけだが、廬山とローザンヌ…、どこか駄洒落で生きている馬骨としては、仏から因縁をつけられているような気がし、蘇東坡の詩は私にとって解明しなければならない問い(公案)として、湖を観るたびに解答を迫られていたのだ。

 

 

   この写真は、何年前であったかわすれたが実際にレマン湖で見かけた風景

 

これまで私は何度か映画『Matrixマトリックス』の『仮想現実』問題をブログで取り上げたが

今は、蘇東坡のこの漢詩こそが、『悟次元の郷』を詠った禅マトリックスであることを思う。

 

 

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" 承認欲求モンスター "

一昨日だったか、Netflixで役所広司主演のドラマ『俺のこと、なんか言ってた?』を観た。

 

全8幕を観終わり、そして昨日Youtubeでこのドラマの完成報告会イベントと称した主だった出演者9人と監督金子文紀氏が登壇したドラマにまつわる色々な楽しい話、それともう一つYoutubeで主演の役所広司氏と脚本の宮藤官九郎氏の対談を聞いては、このドラマの各シーンを思い出しながら余韻を味わったわけだが、脚本の自在感と、役所広司のゆるぎない圧倒的な演技力に恐れ入り、道を極めるとはこういうことかなぁ…と感心。

 

この二つのYoutube動画のどちらだったか忘れたが、『承認欲求モンスター』という聞き慣れない言葉が出てきて、ググってみると【承認欲求モンスターとは、他者からの注目や評価、賞賛を異常なほど強く求め、その欲求がコントロールできなくなっている状態の人を指すネットスラング。誰もが持つ「認められたい」という自然な心理が肥大化・暴走したもので、SNSの普及などを背景に広く使われるようになる。】

・・・と書いてあり、今回のドラマのテーマがまさにそれなのであったが、同時に、毎回の如く、ブログに自分の顔写真をアップしている私、馬骨も、もしかして『承認欲求モンスター』・・・と人に思われているのでは・・・とひそかに心配になってきたのだ。

 

    『俺のこと、観てる?』・・・の承認欲求モンスター馬骨図(22歳)

 

偶然かもしれないが、一ヶ月前くらいに、NetflixやAmazonPrimeで興味のありそうな映画やドラマを暇にまかせて、ザーッと検索している時、凄い量の映画やドラマが簡単に観れてしまう私を取り巻く環境にドキッとしながら、何故我々はこんなにドラマが必要なのか?と思った時、他人が主演するドラマを観ることは、じつは自分が主演のドラマを本当は観たいのでは・・・という気持ちが湧いてきたのだ。

私が禅によって行き着いた先に『 観(音)』というモノがあるが、その『観』への欲求というものは表層的には『承認欲求モンスター』という狂おしい状態で現れ、このモンスターが腑に(不二)落ちる場としての『観(音)』に至らなければ、それは収まることはないのだろう・・・。

 

Netflixドラマ『俺のこと、なんか言ってた?』を観て、そんなことを思った…。

 

 

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『あしたの馬骨…』

インターネットで、漫画『あしたのジョー』 を描いた漫画家・ちばてつや氏の訃報を知った。

 

漫画『あしたのジョー』は、週刊少年マガジンに1968〜1973年まで連載された、『身寄りのない少年が、ボクシングと人との出会いを通して、自分のすべてを懸けるものを見いだしていく物語』で、その連載というのは、私が16歳〜21歳の最も多感な少年から青年への移行期に及んでいたことを思うと、書物とほとんど無縁であった少年期の私に、漫画『あしたのジョー』が及ぼした影響は意外に大きかったのかも・・・しれないと思う。

 

Youtube格闘技番組『ブレイキングダウン』に登場する若者達を彷彿(ほうふつ)させる主人公のジョーであるが、今の若者達は『あしたのジョー』を知っているだろうか?

 

この写真は、牛乳屋に住み込み配達員しながら写真学校へ通っていた頃のセルフポートレート。一部屋を3人で共同生活、そのうちの誰かのボクシンググローブを借りて撮った。この時『あしたのジョー』をまったく意識していなかったが、『あしたの馬骨』は写っていた・・・

 

    とにかく、『あしたのジョー』は絵がカッコ良かった! (画:ちばてつや)

 

 

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 『馬骨』考

今年もあと数日で11月になろうとする中、ふと今年の干支は『馬』であった事を思い出し、私の自称居士名『馬骨』について考察してみることにした。

 

私は禅について語る時、居士名『馬骨』を名乗ることにしたが、普通居士名というのは、(死んで位牌に書かれる居士名は別にして)私の尊敬してやまない禅の大先輩、『(鈴木)大拙』 とか、その親友であった哲学者の『(西田)寸心』などのように、それぞれの禅の師(老師)から授かるモノのようなのであるが、私の場合、老師から『居士名』を授かるほどの関係性を築けなかったこともあるし、なによりできの悪い不肖な弟子の一人にすぎなかった事実があった。

 

で何故、私は自分の居士名を『馬骨』にしたか・・・ということであるが、いわゆる禅界においては、師から認められた者でなければ禅を語る資格が無い・・・という暗黙のルールというか、もっと言えば禅宗という僧侶の世界では、明確な掟(おきて)があるように思うし、仏教学に精通した学者であれば、学者としての立場で禅を語る資格はあるであろう。

 

そう考えた時、私には本来、どこから見ても『禅を語る資格』がまったく無い・・・という自覚の上で禅を語る者、『どこの馬の骨』を自認した居士であるという事で『馬骨』を称することにしたわけである。

 

まぁ、『東洋自分なり研究所』所長を自称した形と同じで、『開き直った』立ち位置ともいえる。禅というモノが、あらゆるイデオロギーを断ち切った野性に放たれた『馬』であるとき、私が『馬骨』として、自己の禅修行体験に基づく『禅』を語る事も、その存在すら知らない人々に一つの重大な『問いかけ』となるかもしれない・・・という可能性に駆けて。

 

 

私は生まれてすぐ、実母の体調が良くないせいで他人に預けられた人間で、その里親の母が亡くなる前に私に教えてくれた事に、『お前の(父方の)婆さんが、私(育ての母)の所にお前を連れて来るまで、6軒の家族をたらい回して、7軒目にようやく私の所に来たんだよう…。お前の夜泣きがあまりに凄くて、皆さん無理・・・ということで。』

 

私は、そもそも自分自身が『どこの馬の骨?』という問いの下に生まれた人間だったわけだ。

 

 

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『SF』は禅に向かう 〜 雲水

SF映画づいて、ずーっと気になっていたSF映画『デューン砂の惑星』を日本語字幕で観た。

 

後半、敵に追われ砂嵐の中をトンボのような飛行機で主人公が母親と二人で逃げる場面で

『生命の神秘は 解くべき問題ではない。経験すべき現実 止めては理解できぬ 一つの過程だ。 その流れと共に動くのだ・・・その過程に加わり流れるのだ 任せよ…』

と、主人公の青年に想念の声が語りかけ、危機を免れる場面があった。

 

このシーンで私の長年の問いであった『 雲水(禅の修行僧)』の意味が解けた。

禅の修行僧のことを『雲水』というロマンを感じさせる言葉・・・何となく解るような気はしていたものの、スッキリとは解っていなかったから、これを映画のセリフとして聞いたというか、字幕で読んだ時、ハッキリ『雲水』のことだ!と、解った。

 

この名セリフは、小説(1965年)『デューン砂の惑星』の著者フランク・ハーバートだろうかと思い検索したら、やはり彼が書いた言葉であり、彼自身『禅』の影響を受けていたことを、インタビューで答えていたらしい。

 

だから、前回のブログ記事で、『SFは禅に向かう』・・・と思わず書いたが、まさに『SFは禅に向かって』いたZen。

 

それにしても、SF映画としての完成度、というかよくぞ砂漠の中でここまで映像化が出来たものよ・・・と感心したが、同時に物語は紀元102世紀だというのに、悪党とは言え憎悪をつのらせる人間の愚かさは、0.001ミリメールも進化していない様子にあらためてビックリ。

 

      相方ニコラ画伯による版画『二人の雲水』の図 

 

『 雲水の 意味を尋ねて デューンとな 流れにまかす SFの僧 』 馬骨

 

 

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SF映画は 『Science Fiction』 から 『Spiritual Faction』 へ

もう再びなのか、三度(みたび)なのか不明なくらい、AppleTVで買い取った映画『インターステラー』を先日じっくり鑑賞して、今日のタイトルとなった。

正直いえば、タイトルは『 SF は 禅 へ向かう』・・・としたかったところだが。

 

私の『SF映画』好きの理由が、今回の映画鑑賞で解明できたように思ったしだい。

『SF好き』は、もはや単なる私の嗜好というものではなく、当『東洋自分なり研究所』の研究課題としての重要性に気付いたと言える。

 

私の中で、特に研究対象となったSF映画は次の三本

映画・公開年
主題・問いかけ
『マトリックス』(1999年)
現実だと信じている世界への囚われから目覚め、自ら選び、他者への愛とともに生きる道を問う。
『インターステラー』(2014年)
宇宙と時間の限界に挑む科学を通して、時空を隔てても人を結び、行動へ導く愛を描く。
『メッセージ/アライバル』(2016年)
言語との出会いによって時間の認識が変わり、未来に訪れる悲しみを知ってなお、愛する人生を引き受ける姿を描く。

 

今日まで、この3本の映画については何度ブログ記事として書いたか・・・

中でも、『マトリックス』については最後には、『間トリックス』という駄洒落に至るくらい私は拘泥したが、結局それは、人間の本質『色即是空』を標榜する気持ちの表現であって、『仮想現実』というテーマは科学の進展でデジタル化が可能にした、自己内に時折観じる『異次元』視現象の可視化(SF化)表現であった、と今私は認識している。

 

そして、『インターステラー』・・・ここも『間』が問題になっていて、

 

科学は、マクロは『宇宙』、ミクロは『量子力学』へとジタバタもがき苦しむわけだが、最後は『慈悲(愛)と智慧』の『禅』に帰結する。

 

科学の想像力(Science・Fiction)が切り開いた宇宙の果てに、人間は愛と覚醒を見いだす。私はそれを、精神の真実へと物語が交わることで、(Spiritual Faction)とSFを再解釈する。

 

今一つ思い出したが、この3本に是非加えたいSF映画『Her/世界で一つの彼女』スパイク・ジョーンズ監督2013年公開があり、今の『Chat-GPT』の出現を完全に彷彿させるもので、その『AIの彼女(サマンサ)』が禅者アラン・ワッツのAIと親交を深め、人間のもとを去ってしまう(?)という内容も未だに私の中で衝撃的…

 

 

 

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『 人"間"工覚 』〜和歌

10月も20日になり、ヨーロッパでも秋がかなり深まって、スイスの隣国フランスでは全土にわたる学生運動に乗じ、一部の暴徒が街に火を放つなど混迷もまた深まる今日此の頃、

我が『東洋自分なり研究所』の各課題も知らぬ間に深まり、私のささやかな『禅活』も、もう少しスピードアップ・・・せよ!という内なる声を聞きながら、ではどうすればいいのかと少々焦ったりする秋、不可視(深し)。

 

私のブログのカテゴリーに、人間の『間』にこだわった『人"間"工学』があったが、    このほど『人"間"工覚』に改名、昇華することにした。

昇華のキッカケは、昨日の朝に何となく出来た和歌(短歌)

 

『 間がありて 初めて"観"の 生ずれば 微笑(えみ)のほとけて 華咲かす君 』 馬骨

 

この和歌によりて、私にとって『観自在菩薩、観世音菩薩』の『観』を覚ることの重要さをあらためて認識したしだい。

 

同時に、『間』の探究は究極の『調和』であるとき、それについて詠った短歌は私にとって『和の歌』という意味の『和歌』に他ならず、歴史的な『和歌』とはまた違った文脈、『佛道』を歩むうえでの一里塚としての『一首』を『和歌』と称したいと思う。

 

今回の和歌・・・私にとって佛性を解明する『佛語・キーワード』満載とあいなりやしたぁ〜

 

 

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