拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

 小さな御親切、旅の醍醐味 …

姉のいる郷里への旅も含め、昔お世話になった先生や友人へのお礼参り以外は、これといった目的も無く東京、金沢、奈良あたりを 2ヶ月ほどぶらぶらした経験は、旅といえば旅なのであろうが、それってなんだったんだろう・・・なんて考える今日此の頃。

 

全くではないにしろ、見知らぬ土地での活動は、心身ともに疲れるものだが、そんな時に知らない人から受ける数々の親切心は、我々の旅心をほぐし温かいものしてくれた事が案外印象に強く残り、それこそが我々が無意識に求めていたであろう旅の醍醐味だったのでは・・・なんて思ったりしている。

 

旅行中我々は、何らかのサービスを受ける立場にあるわけだが、そういったサービス云々を超えた気持ちの交感が起こった時、いろいろ愉快な事があったことを思い出す。

特に我が相方ニコルはそういった状況を引き起こす天賦の才能と、それに最低必要な会話力でニッコリ『こんにちわ〜』なんて言うだけで、『あら〜日本語上手ね!』となって交感が始まるのだった。

 

                       

鎌倉で食べた最後の『納言ぜんざい』に感動して店前で相方の写真を撮っていると、『御夫婦で一緒に、どうですか〜』と我々の写真を撮ってくれた奥さん。相方との数分の会話で、こうなった図

 

金沢でのある晩、どこかで夕食をしょうという事で、ホテルを出ると案外冷たい風が吹いていた。二人で肩を寄せ合って横断歩道を渡っていると、前方から来たおっさんが、『ほら月がきれいだよ』と空を指さして笑いながら通り過ぎていった。見上げた夜空にポッカリ満月があるではないか・・・

 

 

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禅は心の華 覚(カガク)

東京に滞在しているとき、相方ニコルが三十数年前に坐禅会でお世話になった無一和尚を夫婦で二度訪ねた。

和尚さんは昔、平林寺のそばの睡足軒と称する塔頭(小寺)で坐禅会をおこなっていたが、その後、保寧寺(ほねいじ)という埼玉県・加須(かぞ)市の寺に移り、30年かけて現在のような手入れの行き届いた庭・蓮池、美しい花の咲く参道と坐禅道場を整いあげた。

 

     五月初旬、蓮の花はまだ咲いていなかったが、白鷺が舞い降りてきた図

 

   

三月中旬に訪ねた時は緑もなく、参道の石に刻まれた『看脚下』の文字が迎い入れてくれた。

 

 

     

 

境内の裏側に見つけた和尚の禅語掲示板『禅は心の科学、坐禅は心の食事』の文字

 

私以上に科学に疎いと思われる?(それは単に私がSF好きという自負心からの推測であるが)和尚が『禅は心の科学』と宣っている・・・『その心は?』と、聞くつもりが世界一と思われるオシャベリの先客がいた為、聞きそびれてしまった。

 

ただ、この書を観たせいか、『科学』と私の言う『華覚』の解釈に進捗があり、

科学の最先端が物理学で最小を究める、量子力学にいたり、素粒子の『もつれ・重ね合わせ』を観る事になった。

一方、悟りを云々する『華覚』は佛理覚での最小単位(禅)で素龍子の『空色のもつれ・重ね合わせ』を観音するという、最小の処で『科学と華覚』が交差する点を見出したような気がしたのだ。(まことにもって、自分なり・・・な解釈ではあるが)

 

 

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『本質』への旅

昨日5月10日(日)、2ヶ月の日本旅行からスイスに帰国。 

時差で頭がボーッとしている中、 旅の最後半一週間前ぐらい前から我が愚脳に『本質』という言葉が点滅し、それについて何か書かねばということで、今朝3時半に起床、使い慣れた我がPCの前に坐す。

 

まるで『夫婦接心』の如き、よく知らない土地で24時間べったり相方と時空を共有する旅は想像以上に楽しくも、苦しい修行のようで、早く日常の生活に戻りたい・・・と、旅の後半一心に願う自分がいたが、そんな旅中にも関わらず、ちゃっかりしっかり自己究明の『還暦スキャン』が機能していたということか、『本質』という実に本質的な言葉がインプットされていた。

(今回そのことで気が付いたが、本人の知らぬ間にキーワードとなる言葉が、我が愚脳に勝手にインプットされる状態・・・それが『佛語漢字方程式』の特徴の一つであるという事)

 

私の『還暦スキャン』によると、私のこれまでの生き方は、ある『本質』に向かって真っしぐらに生きてきた…ということになるらしい。

これまで、そんな風に考えたことが一度もなかったので、『へえーっ』と私は思う。

 

北海道での高卒後、自分の進路に迷いに迷っていた時、兵庫県の芦屋で写真専門学校の看板を見た瞬間に何故か『これだ!』と思い、10年間写真に打ち込んだ時期を持ったのに写真家にならず、29歳で鍼灸専門学校に入り、個人的にも最高の師を得たのに鍼灸師にもならず、禅に惹かれて10年に渡り修行したのに、禅僧にもならなかった私は一体何を求めていたのか?

 

21種に渡る職種を転々とし、表面的にはフリーターを自認していた私が本当に求めていたものは『本質』という事ではなかったかと、今回の旅で気が付いたのだと思う。

 

それが『禅』であれば、『禅』の字が示すところの『単』であり、仏教でいうところの『仏性』ということになるだろうか。

 

  奈良の海龍王寺を訪ねて・・・、慈悲を『MERCY』と英語でいうところが粋の図

 

『本質』を考えたとき、禅の修行僧を意味する『雲水』という言葉を思い浮かべた。

『行雲流水』の略で、辞書によると『①〜雲が定めなく行き、水が流れてやまないように、一所に留まらない自由な人。また、そのような境涯。 ②〜行方を定めないで諸国を行脚する修行の僧。雲水僧』・・・とあったが、結局それは『本質』を探究する生き方の事であろうか。

 

 

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眼の無いダルマさん

今回の旅、まぁ雪の北海道は別として東京、金沢、奈良と文化都市のいくつかを回り、神社仏閣を中心に訪れたわけだが、改めてこれらが我が日本伝統文化の中心に、しっかり存在することを確認することが出来たような気がする。

 

私などは禅修行を通して、仏教にそれなりに関わって来たから仏像などに関する興味も尽きないが、『自分は無宗教です』と言っているような人は、観光として訪れる神社仏閣に対して、どんな思いを抱いて観ているのだろうか・・・と思う。

修学旅行中の学生グループをいくつも見かけたが、自分の修学旅行を振り返っても寺や仏像には何の感慨もなく、ほとんど記憶にも残っていなかった事を思うと、今こうして時空を超えた眼で仏像を見つめる自分があることを不思議に思ったりする。

 

私たちの場合、どの都市に行っても神社仏閣参りに疲れるといつもの如く、立ち並ぶお土産屋さん、民芸品店などに繰り出し、軽いテンションで眼を楽しませることにしているが、奈良のお土産屋さんで、ゴルフボールぐらいの小さな『眼の無いダルマ』さんの置物がズラッと並んでいる風景を見た時、このようなダルマの置物がどこの都市のお土産屋さんにも置いてあったことを思い出し、同時に『眼の無いダルマ』の『眼の無い』事に意識が初めて行った・・・。

これまで私は、『眼の無いダルマ』というものを、いずれ目出度いことがあったとき、眼を書き入れる事を前提にしたモノと観ていたのであるが、この時私は『眼の無いダルマ』を初めて『眼の無いダルマ』として観ている自分がいて、じつに驚いたわけだ。

 

一般的に『眼の無いダルマ』というものを買う時は、何か夢がかなったとか、祝い事が成就したとき初めて、ダルマに眼を書き入れるものであるのだが、ダルマの真意はそこではなく、『眼の無いダルマ』の『眼が無い』ところを観て、初めて『目出度い』のだと、ダルマは言っているのだ。

それが観えた時、初めて『眼の無いダルマ』に眼を書き入れる事が出来るのだと…。

 

ということであれば、『眼の無いダルマ』があのように大量に店先に置かれている日本という国は一体何なんだ!! 禅問答の『答え丸出し』の『眼の無いダルマ』を店頭に並べていながら、ダルマさんは『面壁九年』の構えで、『ダルマに眼の無い事』に一人でも多くの人に気づいてもらいたい、そして一刻も早く『眼を書き入れ』てもらいたいと祈願している。

そもそも、ダルマさんが禅宗の祖師だと知っている人は稀であるが・・・

 

       今回、永平寺で見かけた大きな『達磨』図

 

 

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今こそ『HI =般若智』

我が情報生活の主流がSNSのインターネットへと移行したことで、日本を旅していてもスイスで生活していても関心の基本媒体が変わらない事実は、それ以前の旅との旅行形態事情が大いに違うことに改めて時代の変化を感じたりしている。

 

奈良に来てから、一冊の本『超知能AIを作れば人類は絶滅する・ユドコウスキー&ソアレス共著』を巡り著名なニュースキャスター豊島晋作氏、TBS CROSS GIG 竹下隆一郎氏とそのゲスト茂木健一郎氏等が『AIによる危機的将来』をテーマにそれぞれ動画をUPしているのを観た。

特にYouTube番組・CROSS DIGにはこの本の著者の一人であるネイト・ソアレス氏がZoom出演して竹下、茂木氏らの質問に直接答え、説得力ある彼の発言に茂木氏も賛同の意を示していた。

 

茂木氏のある質問に対するソアレス氏の答えに

『どうAIが判断したのか、その過程について人間が全く解らない状態のまま「超人工知能・ASI」に向けてAIを開発するのは、無免許で高速道路を運転させるようなものである・・・』という主旨のたとえ話があった。

それを聞いた時、どこかで聞いたことのある話だと思ったら、以前私自身がブログに書いた『悟り』に関する記述で、『悟り(覚醒)のない人生は無免許で人生街道を行くものだ・・・』と、同じ趣旨であることに気が付き、ソアレス氏の危惧というのは最終的に、仏陀がいう処の『人間の覚醒(悟り)』を促す智慧であり考えであると思った。

 

      

     この菩薩はまた遠い未来を救済する弥勒菩薩ともみなされている

 

奇しくもその翌日、昨年中宮寺に初めて訪ね大いに感銘を受けた如意輪観世音菩薩に再会することになったが、この菩薩こそ人工知能の『AI』に唯一対応する事の出来る、人間本来の智慧『HI=般若智』の在ることを私に示唆した菩薩で、何度か『HI 般若智』について書いた。   例えば下記のブログ記事などがある。

 

豊島晋作氏と竹下隆一郎氏等によるこのYouTube番組を見て真っ先に思ったのは・・・

『AIの暴走』を真の意味で制御できるのは、『HI =般若智』でしかない、という事で

そういった意味で、日本人、特に般若智を解した人々の役割というのは今だからこそ非常に重要で、人材の育成に急を要することを強く思った次第。

 

 

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『旅の恥』は書き捨て…

私は自称『我妻御用達専属カメラマン』と自笑し,これまで結構な量の相方写真を撮り続けているが、元撮人科写真家の端くれとしては、人のいない風景はどうも撮る気がしない・・・という理由で、相方を風景の『つま』として添えるのですが、最近彼女はシワやらシルエットやらを気にして撮影を断ることが増え困っていた・・・。

 

昨日は、昨年3月に参加して味をしめたガイド付き観光バスで『奈良大和四寺巡り』に再び参加し、朝8時から夕方6時までの長丁場に4っの寺を巡ぐったが、今回は春爛漫の時期で本当に美しい花々に囲まれた山奥の寺の参道に魅せられ、私ら夫婦は気が舞い上がっていた。

去年は3月ということで参加者も十数人であったが、今回は三十数人で、年配者を中心に夫婦、親子、友人、そして一人参加者といろいろあり、ゆっくりでなければ歩けない足の不自由な人たちも数人いるグループであった。

 

最初の寺で巡礼の白装束、襟の部分が真っ赤な紙チョッキが配られ、寺を巡る際着衣とのことで、各寺で出会う個人でお参りに来ている人達が、我々白装束グループをどのこの宗派グループか…と奇異な眼で見ているようで愉快だった。

確かに装束のグループ三十数人が、急な階段を黙々と登る様は絵になっていたと思う。

午前中2寺、昼食をはさんで午後に2寺を巡る予定。

昼食の際、母娘のお二人と同席になり、『どちらから来られました?』・・・というような会話からあれこれ話が始まり、自己紹介が一通りすんだ時、私と同世代かあるいは少し若い御婦人の方が、『先ほどバスの中で、バカとおっしゃっていた声が聞こえましたが…』と言われ、2寺目を参拝したあと、相方が自由行動中迷子になり、バスに帰ってくるのが15分ほど遅れた時、先に着いていた私は相方に電話して様子を聞いた際、ついいつものように『バカ!』と、バスの中で一喝してしまい、全員に聞こえたその事を言っていたのだ。

御婦人は、『主人を14年前に亡くしましたので、(バカと言える仲の)お二人がうらやましいです・・・』と笑顔でおっしゃり、私を批難したわけではなく、一同皆大笑いしたものの、私は赤面のいたりであった。

 

しかし、これで済んでいれば別に問題もなかったわけであるが、最後の4番目の寺でより重大な事件が起こってしまった。

参拝も済み、各自40分ほどの自由時間が与えられた際、ガイドさんからお土産さんが立ち並ぶ店に、おいしい『ヨモギ餅』も販売しています・・・という情報が事前にあり、これはアンコ大好きな私としては『Mustマスト!』と、必ず行く腹積もりであったので、相方を引き連れて1個100円の焼きたての草餅に舌鼓を打ち鳴らした後、相方の好きな印伝屋の財布を扱っている小さな店に入り、親切な店員さんとあれこれ話してると、相方の気に入りそうな品物が店前の道を川沿いに下っていくと本店があるので…と教えられ、川沿いに下れば我々のバスが駐車している所に行き着くと思い込んでいた私は、相方を連れどんどん坂道ったのだが、どうもそれらしい店もないしバスも見当たらず、ついに相方が『方向が違うじゃないの?』と疑いだし、時計を見ると集合の15分前となっていた。

『あれ~、おかしいなぁ、川沿いに行けばバスにもどれると、ガイドさんが言っていたはずなのに・・・』。

その後焦った私達は同じ道を行ったり来たりしてるうちに、相方は『バス会社に電話して事情を説明して、皆さんを待たせることなく先に帰ってもらうよう連絡して!』とは言うものの、連絡先の電話番号もわからず私は途方に暮れ、相方から『バカ~!』の一喝が・・・。

 

こういう時は原点に戻るのが賢明と思い直し、坂を登ること三度目、焦りも手伝って汗だくになりながら前方を見ると、遥か先の交差点にバスの運転手さんが立っている姿が見えて、『嗚呼~、佛は我々を見捨てなかったか~』の思いが沸き、だいぶ後方であえぎながら坂を登る相方に私は助かったのサインを送ったのであった。

 

バスに着くと、外で心配していたガイドさんが、『いやー、心配してました…よかった。5分の遅れです~』、私としては20分以上皆さんをお待たせしていた、と思い込んでいたので、ちょっとズッコケたが、バスに乗り込んだ際、皆さんに深々とお詫びを申し上げると、後ろにいた相方がすかさず、『今回は主人が道を間違えました~』と間髪をいれずに公言したのであった・・・。 

 

『 少しずつ ボツの写真が 増えてきて カレイな変化 侘び寂びのつね 』馬骨

 

ガイドさんが言った『川沿い』は川沿いでも、川の山側であって、私がせっせと下った川沿いの下側ではなかったのである・・・『バカ者!』

 

 

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『合掌』という公案

公案というのは、『禅問答』のことで、問に対する答えが心底自分のなかで腑に落ちる・・・まで決して問うことを止めない事である、とは馬骨解釈で、本物の禅僧がどう説明するのか私は知らない。

 

しかし、その禅僧にしても『合掌』を日常的にしょっちゅうしているが、その意味を人に問うのを、私は一度も観たことが ない。

大昔に一度『右手は仏様、左手は自分で、それが一つになることが、合掌の意味です』・・・というようなことを説明していた坊さんがいたような記憶がかすかにあるが、それは、瞬時に右の耳から入って左の耳からスーッと出ていってしまった。

それは多分、その坊さん自身が本当には解っていなかったからではないだろうか・・・

 

なんで今更、『合掌』問題…と自分でも思うが、それがこの旅での効用でもあったでろうか? この訳がわからないくたびれ旅は、観方によればある意味『接心』のように最後は自分なりに切羽詰まったところがあったが、 自分の『合掌』がようやっと腑に落ちた・・・というより『不二落ちた』気がした。

 

そうして観ると、この旅で見る沢山の仏像の『合掌』は、『悟り』丸出しではいか。

 

 

       

          吉野の蔵王権現さまの憤怒の四股ふみ

権現が ドスンと地球の 四股踏めば ぎゃふんと我の 目が覚めるかな…』 馬骨

 

あまりにも丸出しだと、かえって見えないもので、ドスン!の一発が人間には必要なのかも、また相撲さんの『四股』には地鎮祭としての意味があるそうで、それが権現さまの『四股』であれば最近の地震を鎮める力ともなっているであろう。

 

 

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