拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『坐』文化、万歳!

 先月8月の2週間ほど、隣人のポルトガル一家がバカンスで留守にしている間、猫の世話を頼まれ、毎日15〜20分ほど隣のアパートで過ごした。

西欧人の住居状況というのは、これまで友人や知人、親戚の家などいろいろ見てきたので知っているつもりではあったが、誰もいない居間を猫と戯れながら過ごしてみた時、洋式住居の床というのは寝転べる場所になっていないことを、つくづく感じた。

 

私らの居間にしても、二つの小さめのソファが陣取り、普段の生活はソファや事務椅子に腰掛け、流石に床に坐ることはめったにないが、朝起きたら私は真向法という床に坐ってする体操、相方はまた別な寝転びながらする柔軟体操をすることが、もう三十年以上の日課になっているので、モケットというのか絨毯というのか板の間の居間に敷いてあり、坐ったり、寝転んだりすることが気兼ね無く出来るようになっている。

 

そう考えてみると、昔の日本人ならば夢見る『畳の上で死にたい…』というのも、拡大解釈すれば、たとえ畳でなくとも、床に坐ったり寝転んだりする空間、場が在るだけでも何だが気の持ちようが物凄く違う・・・ことに、思い至る。

 

洋式の居間にいて、何もかも立体的でよそよそしい感覚にとらわれるのは、居間でゴロリとくつろぐ畳生活が身についた私の生活スタイルと、29歳より始めた坐禅修行のせいもあるが、地べたに直接接触する心理的な安定感、同じ体操でも立位と坐位とでは、また何かが大きく違う気がして、立位の気功体操と坐位の真向法をして身心をほぐすよう心得る。

 

   1993年、スイスに来て2番目のアパートで寝転ぶ馬骨図(ニコル画伯作)

 

「坐」は、身体と視点を低くする所作でありながら、心を深くする営みなのか…。

 

 

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運命の『赤い糸』

友人、知人との会話のなかで、仏教の根本理念の三法印『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』などを口にしようものなら、『難しい!』の一語で言下に話題変更を余儀なくされる…。

かっての自分がまさにそうであったので、私は滅多のことでは口にしないようにしているが、先日間違って『諸行無常』と言ってしまった。のみならず『諸法無我』も。

 

『諸行無常』であればいざ知らず、『諸法無我』・・・ってなんの事?って思うよな。

そのへんのことが、何とか成らんのか・・・と、私は『東洋自分なり研究所』を立ち上げたわけで、たった独りで、考えるともなく愚考していると、まぁそれなりの妄想が湧いてくる。

それら妄想の数々の点と点が『自分なりの視点』で結ばれ始めてきた・・・。

様々な佛語というのは、その時代や立場、思想などによって生み出され、佛性の本質を様々な角度から表現した言葉・・・という風に私は捉え、自家薬籠として自在に使わせてもらっている。 

3年前に『天上天下唯我独尊』を『赤ん坊の産声』として捉えていた。⬇︎⬇︎⬇︎

 

赤ん坊は『諸法無我』そのものというより、まだ『自我』という鎧を厚くまとっていない、『無我』の面影を宿した存在なのではないか・・・という思いを強くする。

 

『赤ん坊』はその存在自体で人々に『喜び』と『希望』を与えながら、その『赤ん坊』は、その時期を憶えていない・・・不思議な存在で、ただひたすら『無我』。

 

『運命の赤い糸とは〜将来結ばれる運命にある男女が、生まれたときから目に見えない赤い糸でつながっているという、東アジアに伝わる伝説』by Google 

 

普通、運命の『赤い糸』というと、男女が結ばれる糸のようだが、私はより本質的な『赤い糸』というのは、『赤ん坊』という記憶の残らない時期の自分が、後に自我で飽和した時、無我に回帰するための『赤い糸』を必ず結んでいる・・・その事を『運命の赤い糸』と言うのだと思う。

 

それは、記憶の残らない赤ん坊の頃の自分と、自我で飽和した現在の自分を結ぶ糸である。

人はその糸をたどって『無我』へ戻るのではない。『赤ん坊』から今日まで、『無我の糸』が一度も切れていなかったことに気づくのだ。

その時人は『天上天下唯我独尊』と叫ぶだろう。


だから私にとって『悟り』とは、『郷理・サトリ』であり、Homeで、そこは自我で飽和した私と、初めからそこにいた無我とが出会う場所、『坐』という、二人で一人の『場』なのだ。

 

『赤い糸』をたどるか、どうか?・・・それはアナタの『自由』という人生ゲーム図

     (私の大好きな Jean -Marie Borgeaud の作品より)

 

 

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『意』味

ブルース・リー曰く、『考えるな、感じろ!』・・・をベースに

馬骨曰く、『考えるな、漢字ろ!』となり、それはやがて『観じろ!』にまで昇華していた。

 

39歳で禅寺での修行を打ち切って渡欧、『禅』の素晴らしさを「広報勝手連」的な気持ちを抱いていたが、諸事情によりスイスでの定年退職の65歳まで『自分なり禅活』を封印。

 

退職した2017年、いざ禅活・・・とは思ったものの、ドラゴンボールのような『禅』をどうのように自分の言葉で伝えるのか???というのが、当然『問題』として浮上した時期、相方との日本旅行で伏見稲荷の『千本鳥居』を渡ったとき、鳥居⛩️の形状と、それが何本も密着して続くさまに閃いたのか、私の『佛語漢字方程式』への道が『開』いたのだ・・・。

 

伏見稲荷だけに、まさに『狐につままれる』思いだが、それというのも、それ以前に禅修行で『観音』様の慈悲に導かれていたからに他ならず、結局、古来の『神仏習合』というのが、『東洋の神秘』を『開』くキーワードであったわけだ。

 

文字の無かった日本が、仏教とほぼ同時に中国から取り入れた『漢字』。

最初は、『万葉仮名』のように、漢字の意味と、自国日本語の音との表記混乱の時期を経て、音読み、訓読み、平仮名、カタカナを編み出して日本語文字として長い時間をかけて定着していった。 私は無学なので学術的詳細は知らないが・・・。

 

無学な馬骨の考えだが、インド仏教が中国に渡り、サンスクリット語から漢字に翻訳するとき、沢山の『佛語漢字』が般若智(HI)に透徹した、松岡正剛氏のいう編集工学エンジニアとしての仏教徒による『漢字ビット』を駆使して創作された佛語文字だと思う。

【*漢字ビットとは、一字の中に形・音・意味・歴史・関係性を圧縮して保持し、読む者の観察によって特定の意味が立ち現れる、意味情報の最小単位である。】

 

いま科学の分野で最も注目されているのは『意識』である。

そして佛道『華覚』ではそれを『意』の漢字ビットとして千年以上前に後世に残した。

 

『意』の字は『音+心』から成る。

それは馬骨論的には『自然』の完成、つまり『般若智の完成』を表す。

『自ずから響いてくる音』に、『自らの心』を寄せる。それが『観音』。

その『音』と『心』の融合を、『意』の一字が象徴していると観るからだ。

 

    

   【如意輪観世音菩薩】の姿は、観音することで、その『意』味を象徴している図

 

 

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『自観』が『時間』

先日、我が街の文房具店で相方の誕生日カードを物色していると、かつてのガイド仲間の日本人女性にバッタリ・・・。25〜30年ぶり?ぐらい。

今だに観光ガイドとして働いているらしく、その日も仕事帰りという。

その昔、(私の)ガイド中に同じ登山電車車両になった時、彼女のガイドぶりを横目で拝見、そのプロに徹したガイディングに舌を巻いて以来、10歳年下の彼女に敬意を抱き、いま彼女はどうしているだろうか・・・なんて、時折思っていた人であったので、会えて嬉しく、お茶をして互いの近況やガイド時代の思い出を語り合った。

 

話は自然、私の道楽の『ブロ活』に及び、いくつかの佛語、例えば『諸行無常』とか『色即是空』、『般若心経』など…の単語を口にすれば、彼女にはまったく通じず、『聞いたことも無い』と、言われてしまった。

まぁ、彼女に限らず若くして海外に渡った人は、ほぼ例外なく、仏教の『ブ』も知らない人達であることは、これまでの海外生活で十分承知していたつもりであったが、この事があって、あらためてその事実を、切実に受け止めた。

そしてそれって、海外在住組でなくても、仏教について知らない事が日本人の『普通』なのであって、『知っている奴』の方が普通ではない・・・のであったか。

 

それでも私は、六十も半ばにある彼女に向かって『諸行無常』は解るでしょう?『時の移り変わりで、何一つ変わらないものはない…』というような・・・。

『ショギョウ・ムジョウ』という聞き慣れない佛語単語のひびきを聞き取るのが精一杯であることを、彼女の表情に読み取った私は、難しい佛語は、一般の人に仏教を伝える最初の言語には成らない事を痛切に感じ、『1+1=2』レベルの数式に当たる『門+口=問』の佛語漢字方程式が、やはり有効であることを思わせてくれた、一日であった。

 

それで、何故今日のテーマが『自観が時間』なのかであるが

『諸行無常』が主に『時間の問題』であれば、

『日+寺=時(間)』で、『(禅)寺が自観の場』であることが解れば、本当の私の『時間』は、私が『自観』することで生じる『時』のことなのだ。

 

去年の今頃も、そんな事をブログに書いていた図 ⬇︎⬇︎⬇︎

 写真学校で助手として雇われた24歳の私は、別の『自観』修行に勤しんでいた図

 

右に見える写真に『地球は回っている』というタイトルをつけているが、自分の『自観』を自分なりに言語化しようと・・・悪戦苦闘していた時期であったと思う。

 

 

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道と師

昨日、Youtubeのショート動画で、3、4歳ぐらいの子供が、コーチらしき人からテニスのレッスンを受けている様子が映し出されていた。

 

ほんの数日前(8月29日)に、スイスの超有名な元プロテニス選手、ロジャー・フェデラーの国際テニス殿堂入り式典』があり、ガチファンであった相方に促されて、彼の演説を視聴したが、私もスイスに来てから相方と共にフェデラーを応援してきたので、彼が演説の途中で感極まって涙するシーンに共感したばかりであった事もあり、動画でテニスレッスンを受ける子供を見た時に、ふとフェデラーも幼少時からレッスンを受けていたのだろうなぁ…と思ったのだ。

 

その時私は、『師』の存在の重要性について考えていた。

スポーツ界でトップアスリートになるには、幼い頃から指導を受けることは、じつに重要だと思うが、ましてや目に見えない『道』を行く求道者であればなおのこと、『師』との出逢いは非常に重要なことのように思うわけだ・・・。

 

20代なかば頃、私は将来海外に飛び出そう・・・と思っていたが、そのためには西洋に対する東洋である自国の文化を知る事と、写真家として食っていけそうもない自分が手に職をつける、という一石二鳥を狙って鍼灸専門学校に入学した。

その名も『東洋鍼灸専門学校』、そこで出逢った二人の鍼灸の師が共に禅者であった事が仏縁となり、私も禅道の求道者になってしまった・・・という経緯(いきさつ)がある。

東洋の『道』には『師』が付きものなのか?それまで、『師』という言葉は私の辞書にまったく無かったはずが、いつの間にか刻み込まれていた。

北鎌倉・円覚寺の居士林で出逢った師、雲頂庵和尚。そして後に参禅することになった足立慈雲老師。

しかし、これらの『師』の存在に心より感謝する気持ち、有難さに気づいたのはだいぶ後になってからのように思う・・・。

 

      鈴木大拙師は、彼の著書を通して出逢った私の『師』

本というものが、じつにその人柄を実感させるものであると、彼の本を読むたびに思う…。

 

 

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シンギュラリティとしての『禅』

いまや人災というべきか、天災というべきかわからないくらい今年(2026年)の気候変動による災害、或いは世界各地で相次いて起こる地震災害など、容易には予測できない出来事が世を不安にさせている。

一方で、これまた予測不能という意味で、まったく別な方面から人間を不安におとしめているのが『AI』のシンギュラリティ問題で、私にとって世界の窓とも言えるYoutube界隈で盛んに取り沙汰されている。

(*シンギュラリティとは〜「AIが人間の知能を超え、その後の変化を人間が予測しにくくなる転換点」)

これまでの、科学の進歩で『便利だなぁ〜』なんて言っているレベルをはるかに超えた『AI時代』を、人間が丸腰で迎えることを、AI研究家自身がその危険性を警告している。

それで、私は英和辞典で『Singularity・シンギュラリティ』を調べてみると、

①奇妙・異常・非凡・

②単一・単独

③特異性・特異点

・・・とあり、単細胞な私は、特異点としての『単一・単独』という漢字に眼を付け、これって『禅』の『単』だよなぁ…と、佛語漢字方程式的発想が閃いたわけだ。

よく『禅とは何か?』と世の人々は問うわけだが、つまりは『悟りの道を自ら歩む』事で、その『悟り』が『人間のシンギュラリティ』であるとするとき、AIのシンギュラリティが、知能の量的な増大によって人間を超える転換点だとすれば、禅のシンギュラリティは、『人間が自我によって人間を理解する限界を超える転換点』と言えそうだ。

そうしてみると、『禅』という漢字が『人間の「シンギュラリティ=単一」を示す』と解読出来ることが、愉快だ。

 

自分のブログ記事を『シンギュラリティ』で検索してみると、いくつか記事があって2021年に最初の記事があった。 ⬇︎⬇︎

 

当時の『コロナ事件』は、マスクによる人間の『一黙』を強く意識した時で、漢字方程式的に『曰』を自分なりに深めた時期であったと思う。

 

AIが人間を追い越そうとしている時代だからこそ、人間は、人間自身を追い越さなければならない。まぁ、ここまで人類は来てしまったわけで、今更ジタバタしても仕方あるまい……。『急がば回れ』ということで、『坐禅』でもするべかなぁ〜の図。

 

 

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観音信仰・・・?

自称『禅者』のつもりが、なんだか最近『観音信仰』信者になってしまったような…。

と言いながら、『観音信仰』については、正直何も知らない。

 

私の場合、坐禅の過程で『観音』している自分に気が付いた・・・という感じなわけで。

いわゆる『観音信仰』そのものが、入口とはなっていない。

 

そこが『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』の禅の本来の面目であり、

そこにこそ、日蓮が「禅天魔」と批判せずにはいられなかったほど、教義だけでは囲い込めない、禅の無限に自在な手のつけられない『仏性の捉え方』がある。

 

十人十色というが、それどころではない千差万別の『悟り道』があり、『縁起』があるのだと思うのだが、大乗仏教の経典に『観世音菩薩』が登場したのは1〜2世紀であったが、私は「観世音菩薩」という名称を、単に救済してくれる菩薩の名としてではなく、「行深般若波羅蜜多時」に開かれる境涯・・・深い瞑想によって世の音を観る者として読む。むろん、これは仏教学上の語源説明ではなく、坐禅を通して得た馬骨なりの解釈である。

 

だから、『観世音菩薩』は私にとって祈りの対象ではなく、『悟り』の具体的な方法と状態を言い表した名称であり、それを自己実現することが『救済であり慈悲』そのものであると解釈する。

『観音信仰は、宗派を超えて庶民生活に深く根付く、最も日本的な仏教信仰の一つ』と言われ、観音菩薩像が日本の至ることろにあり、『観音』という佛理覚的『調弦理論』に耳を傾けることをススメておられる。

 

ブログを書くに当たり、私と仏教がいかに無縁であったかを、表現するつもりが、高校時代に模写した一枚の『観音菩薩像』・・・これって仏縁の『赤い糸』ならぬ『意図』だったの図

 

 

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