拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『円覚』時

『私の愚脳に常に流れている命題は、「禅」が現代に果たすべき役割の研究と、その一般への周知・・・であろうか。』・・・とは、2年前の6月に書いたブログ記事の出だしの文句で、たまたまHatena Blogが過去記事の案内として提示したものを読み返したが、普段ほとんど誰とも『禅』について会話することもなく、ボーっと過ごしている私としては、自分の思いを言語化している自身の一文にハッとする、昨日あたりから30度超えする初夏の今日此の頃である。

なるほどね…、と関心しながら思うに、最近私が注目しているテーマは『時』で、一ヶ月ほど前に『漢字方程式』的に、解説したブログ記事がこれである。

最初に坐禅をした時の感想は、これまで何回か書いてきたが、つまるところ『時間』の問題であって、『坐禅』という何もしない状態・・・に対して『時間の無駄』であると、怒り心頭で断言した舌の乾かないうちに『時間』に対して『?』を抱いたことを私は覚えている。

今思うと、私は最初の坐禅で禅の核心に迫っていたわけで、その後の長〜い修行というのは、その確認、確証であったのだと思う。

そしてそれというのは、禅僧がよく描く『円相』に通じることを改めて思うが、それらを敷衍したとき、そもそも私が修行した円覚寺の『円覚』という文字、言葉に語り尽くされているように思うのは、単に私が単純であるからにほかならなく、駄洒落も手伝って『円覚寺』ならぬ『円覚時』という『時観』が内包された『時間』の問題は、現代人にとって最も入門しやすい問題として『禅』を取り組むうえで一つの大きな目安となるように思う。

この図は30年以上も前のカレンダーの図で『天上天下唯我独尊』を表すが、中心に『門構えに寺』の字を配し、その両側に『時』と『間』が在るのが、今思うと非常に深い・・・。

 

 

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 『花 猫 風 月』観

考えてみると、『花鳥風月』的な文化観・・・って、私に訪れて来たのは、2006年になってデジカメ一眼レフで撮り始めた『猫』の写真ぐらいだったから、私が54歳の時であった。

 

それまで、私の生活に『花鳥風月』はあったのか、なかったのか?

写真を長年やっていたが、テーマがモノクロで撮る『人間』であったので、自然『花鳥風月』みたいな処に視点がいかなかったのだろうか。写真のデジタル化が、私に色の溢れた『花鳥風月』へと追いやった経過は、住んでいる場所がスイスフランス語圏であることも含めて考えると面白いものがある。

ただ、私の中には禅の修行で培った『Zen観』のようなモノがド〜ンと中心にあったので、ある意味それが、いつの日か『花鳥風月』へと帰郷するのは時間の問題であったと言える。今思い出したが、2011年にスマートフォンを買って、ツイッターで『俳句』を始めたことも、それとまったく同様で、禅者としては当然の成り行きとしての『帰郷』であったであろう。

 

『悟り』を説明する時、私はより理解しやすいように、『郷里』と書いて『サトリ』と読ませることを考えたが、私がここでいう『帰郷』とはまさに『郷里・サトリ』への帰着を意味する。

よって、『花鳥風月』を云々するときは、『悟り』を抜きに観賞することは出来ないと思っている。 それなしには野暮であり、無粋・・・ということになるだろう。

 

『 風月も 視点定まる 時まてば 花鳥と共に いきる我かな ...』馬骨 

 

 

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還暦と縁起

最近Youtube動画で、『みうらじゅん』にハマり何本か観て、馬骨のやっている事と同類で同延長線上にあるなぁ〜・・・の感しきり。

娑婆のよしなし事を、『オヤジギャグの境涯』に引き下ろし、まったく別物の目線で新たな意味づけをして人々に披露する・・・手腕は素晴らしく、じつにオモシロイ!!『アウト老』とか『老けづくり』とか。

なんでも幼少の頃から、『仏像好き』だったそうで、仏からエロまで、それこそ色即是空空即是色の観自在ぶりは、痛快で、辛気臭い仏教をポップに魅せるユニークなオッサンだ。

彼は私より6歳下であるが、武蔵野美術大学卒だそうで、私がしこしこ居士林に通って只管打坐していた30代、彼は友人等とオモシロ可笑しく飲み遊んでいた・・・という対象的違いが、『オヤジギャグの境涯』の発露に違いとして若干あるが、まあ似たようなモノだ…。

 

ひたすら『只管打坐』をしていた時期、約10年間というのは、それこそ何も考えていなかったわけで、『ム〜・・・』としているなか、『?!』の瞬間が何度かあり、それを既成の佛語なんかで磨き上げると、それらの佛語がキラキラと光り始め、日常用語と思っていた普通の言葉が意外な意味をもつ佛語であることが解ったりして、ついに『漢字方程式』にまできてしまって、我ながら、『みうらじゅん』だなぁ〜と思うが、それもこれも私が僧侶ではなく、無責任なただのオッサンの立場であることもあるだろう。

 

私は頭の回転が人一倍遅く、還暦を迎えた時期(13年前)にようやく『還暦』の意味がわかったが、『還暦』というのは、一人ひとりにある『仏性』が覚醒しようと(それが縁起)起こした思いや出来事の各個人の歴史を省みる行為・・・という馬骨定義。

今年伏見稲荷大社にある茶屋での一撮。日本は『縁起モノ』で溢れているが、本当にそれを『縁起』にしている者が少ないのが、残念な気がする・・・。

 

 

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宗教とGPS

戦後生まれのオジサンというか、私たち老人等は、宗教を利用した軍国主義を敗戦後に大いに反省するあまり、宗教を遠ざける風潮の中で育ったわけで、その子孫の3代目ぐらいが今の若者であるのだから、総じて『宗教』に無関心だ。

しかし、その風潮というのは日本のみならず西欧でも同様で今や死語になりつつあるのでは?と、思うような『宗教』は、『AI時代』という想定外の時代の中にあって、どのような意義を持つのだろうか?… などと妄想してみた。

人間が『生』を受け成長する中で、最も大切な教育。

というような事を考えたとき、この多様性に満ちた21世紀という超複雑な時代に私達は子息に何を教えるべきであろうか、その答えを持つ子の親は少ない。

例えば、昨夜この世に生を受け白紙状態の子供達は、『A I』や『GPS』によって生きる知識を身につけて、果たして幸福になることができるであろうか? 甚だ疑問だ。

GPS(Global Positioning System=全地球測位システム)で、自分自身の地球上の現在地は解るが、より重要な精神上の現在地はそれでは知ることが出来ない。

そういったようなとき、学問でも科学でも哲学でもない『宗教』の出番というのが考えられるのかも知れない。 まア、心のGPSのようなモノか。

そこでちょっと馬骨流『GPS』を考えてみた…

GPS【Gassho-合掌(今ここの徹底)、Presence-現(在)、Satori-悟り)というような事で、心の自分の立ち位置を認知する ことが人生において最も大切な『縁起点』なのだと思ったりすると、『宗教』こそは、子供のうちに基礎を身につけることが大切。

 

『天上天下唯我独尊』・・・は、宇宙にあって、最初にその立ち位置を示した人間として当然の雄叫びであったであろうか。

 

 

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馬骨的『大乗(仏教)』解釈

仏教が、大乗か小乗なんて気にする人は・・・仏教学者とか、学生、仏教マニア?

大半の人にとっては、どうでもいいようなことだろう。

先日、例の松岡正剛著『知の編集工学』を読んでいると、

『 私がいつも強調することなのだが、情報はつねに「乗り換え」と「着替え」と「持ち替え」を起こしている。どんな情報もつねに何かの乗り物に乗り、何らかの着物を着て、あれこれ持ち物をぶら下げている』・・・この行を読んだとき、

釈尊が悟り、仏教原理になった『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』というモノも『情報』とすると、『乗り換え、着替え、持ち替える』・・・つまり、時代とともに時代にふさわしい『形態』をとる、と、ここまで考えたとき、『大乗仏教』の『大乗』というのが、じつは単に『沢山の人が乗れる』という意味だけではなく、『いかなる時代も乗り越える』という意味の『大乗』・・・なのではないか?と思った。

 

      

私は今年2月、奈良の中宮寺を訪ねたとき、この仏像に出会った。

この像を観たとき、その姿の普遍性に驚き、感動した。

この仏像は、『弥勒菩薩』と目され、弥勒菩薩は56億7千万年後の未来に現れ人々を救済すると言われているが、このとてつもない膨大な年数というのは、私の思う『大乗』を意味し象徴しているように思うのだ・・・。

 

 

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馬骨のマトリックス物語

"Wake up, Neo..."
"The Matrix has you..."
"Follow the white rabbit."

・・・とNeoのPC画面に、

"Knock, knock, Neo."   

・・・次の瞬間、『白兎』のタトゥーを入れた女が迎えに来る…

1999年公開された映画『マトリックス』のメッセージはこのシーンに尽きる、と今では思う。

 

覚醒をうながす『白兎』は、いまの日本であれば『縁起物』といえようか。

 

5世紀に漢訳されたお経『涅槃経』に『一切衆生悉有仏性』と書かれていたそうだが、『誰もが仏性を持っている』、これが仏教思想のベースとなって今日までそれが伝わっている。

・・・と、私は禅を通してそれを確信したが、どうもそのことを今の世間の皆さんは誰もそのことをまったく気にしてない・・・ようだ。

覚醒といえば、2500年も前に釈迦が悟りを開いて『天上天下唯我独尊!』と雄叫びをあげ、その声が、『観音』となって日本にまで響いているが、誰もそれを真っ当に受け止める様子もない。

『一切衆生悉有仏性』であるはずであるから、じつは誰でも『あれッ…!』というような仏性からのメッセージを日常的に受け取っているのに、忙しさにかまけてメッセージを捉えられないでいるだけなのだ。

そう考えると私の場合、29歳で禅修行を始めるまで、まったく仏教とか仏性とか無縁であったと思い込んでいたが、そうではなく、4〜5歳ときから私の『白兎』は何かと私に声がけしていたように思う。

実際そうでもなければ、北海道の片田舎で生まれた私が、どうしてのこのこと北鎌倉の円覚寺なんかに坐禅しに行ったであろうか。禅修行中の時期だって、別に坊さんに成りたいわけでもないのに、自分でもわけが分からない思い(意思)に引っ張られるように通っていたのだから。

釈尊によって発見された『仏性』・・・その延長線上に映画『マトリックス』も制作されたと私は思っているが、そういった東洋思想の伝統のない西欧では、ITテクノロジーの影響化もありバーチャル(仮想現実)な方へと関心が向けられてしまった。

その点、日本は『仏性の覚醒』という伝統文化が基盤にあるので、『縁起物』で溢れている。

例えば『ダルマさんの置物』・・・これが禅の創始者であることを知っている者は何人いるだろうか?そもそも『縁起』とは覚醒に向けての『起爆装置』であることを認識して皆覚醒すべき。

 "Wake up, Bakotsu..."

 

 

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『 Ai 対 禅 』

先日73歳になり、2017年に定年退職してから8年目を迎えた。

このご時世に、ヨーロッパはスイスでジジイ世代を迎えたのだから、自然、時間の大半は日本のYoutube動画などを見て過ごしている・・・。

 

そうして思うのは、『Ai』が恐ろしいスピードで進歩している様で、その方面の専門家等が毎日のように、眼を丸くして『Ai』の可能性の拡大について説明している…、かと思うと

その一方で、何時まで続くのか?と思うような『兵庫県知事』の問題や、日本の政界の動向、そして世界中を巻き込んで奔放するトランプ政権のニユースなどを観るにつけ、『人間性』の著しい劣化を観せられるようで、『Ai』との対比を考えると、頭が混乱して何がなんだかさっぱり解らなくなり、空恐ろしい気持ちになる・・・。

 

多分、これまでいつの時代の人達もつい『世も末だなぁ〜』と、このセリフをいい続けてきたのであろうが、なんだか、いまの世ほど切実であっただろうか?と思うほど、『ヤバい』状況のような気がするのは、私がジジイになった、歳のせいであろうか?

 

その意味では、仏教が教える『諸行無常』・・・というのは大正解で、

であれば、次の『諸法無我』なんていうのも、大正解であるのだろうけれども

その『諸法無我』に向かって、世の中をなんとかしょう・・・などと考える人の割合などを思うと、それこそ、『世界の片隅で無我を叫ぶ』・・・というような図が見えてくる。

      

私は今日のブログタイトルを『Ai 対 禅』としたが、その『対』の意味するところは

松岡正剛氏がいうところの、『デュアル』と『リバース』で、対立しているようで『一対』として相補的関係も成立するわけで、人間としてはそのあたりの『和』の智慧の完成をこそ急がねばならないのだと思う。

 

 

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