拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

掃人

  ボクは自分のことを「掃人」だと いつの日からか 思うようになった。

  大袈裟に云うと 「わが人生 掃いて 掃いて 掃きまくり!」 

  アンタ、 掃除屋さんか?・・・と言われそうだが まぁ、当たらずと雖も遠からず・・・の心境ではある。

  そういったことを 意識した最初は 30年ほど前になるが、
  さむ~い境内を 裸足に下駄を履き 竹箒をもって階段を掃いている自分に ふと、我に返った時であったと思う。

  禅の修行に入った動機は 今から考えると 様々な原因、要因が重なり重なり 気が付いたら そっちに来ていた・・・みたいなものだが、

  その一つの縁を作ってくれた人が 伊藤真愚先生で ボクが入学した鍼灸学校の 先生であった。 いつも紋付き袴スタイルで 他の先生達とは
  というより、 他の誰とも違ったオーラを発していた。 この先生に「経穴経」といってツボの名前を お経状に書いた折りたたみの書を 暗記させられたものだ。

  この先生は その頃も鎌倉の円覚寺に 接心に参加され 当時の足立老師とも親しい間柄であったようだ。 この先生、昼休みに喫茶店で いろいろ話をしてくれるので
  ある時 禅とはどんなものか? とお聞きした時だった 先生はいきなり 「お前の部屋は 汚いだろう?」と言われたのだ。

  何故か そう言われた事だけは 鮮明に覚えていて・・・寺の境内を竹箒で階段を掃いている時 ボクは先生の質問の意味が 少しわかってきたのだと思う。

  そういえば 道産子のボクは 雪かき は当然だし、学校での当番掃除 、中学になってスピードスケートクラブに入っては グランドに水をまいて作ったスケートリンク   
  を しょっちゅう竹箒で掃いていたっけ。
  
  しかし、何と言っても 「掃く」ことが「清める」ことであることを 身を持って教えてくれたのは 「禅」修行だったことは 間違いない。
  しかも親切に 坐禅している時以外は とにかく 「作務(さむ)=掃除」で徹底していた。 
  今だから わかるが 作務が禅で 禅が作務 だったことを その時は わからなかった。

  ところで 伊藤先生に なんと ボクは答えたのかよく覚えてないが その頃のボクは 何が「清」なのかが そもそもわからなかったのだから 何と答えても 
  先生は 相手にも しなかったであろう。
                     
                      鍼灸学校にかよっていた頃(同時に禅を始めた頃) 職場兼寝床の夜間管理人の図
                      禅をやっても煩悩だらけの自分が やっていなかったら・・・