この春に、ある意味人生初で寺巡りをしたが、大小、宗派の違いに関わらず、寺の門に仁王様が『睨み』をきかせていることが印象に残った。
そういえば、私が育った田舎の寺(曹洞宗)の門に真っ赤な仁王様が恐ろしい顔をして左右の門に立っていたように思う。『なんでかな〜』ぐらいには思ったかもしれないが、それを大人に質問なんかはしなかった。質問をしていたら、また人生は変わっていたかもしれないが。
かの有名な東大寺の仁王門の仁王様が運慶・快慶作で1203年だそうだから、まぁそれ以前から寺には仁王様があったとして、少なくとも800年の歴史に渡って『睨み』をきかせてきたわけだ。
昔は、仏教を『仏道』と称していたが、まさに仏道に入る門に『仁王』が立っている・・・ということになり、そのことの意味は考えるに値すると思う。
他の宗教で、門のところに、恐ろしい形相で入門する信者を睨みつける…システムを持つ宗教は他にあるであろうか? 海外から来る外国人は有名な寺院を訪れた時、その門に『仁王』が立っている事をどう思うのであろうか? 或いは『仁王』という言葉の意味を翻訳した冊子を読むことで、納得するのであろうか?
私はかつて禅門を叩いて、結果として仏道を歩むことになったが、(そういえば円覚寺の門には仁王様はいなかったような…気がする)禅寺には、像の仁王ではなく、生きた禅僧が仁王の如く、睨みを効かせ、警策を持った禅僧が私らの眼前をノッし!…と太いふくらはぎをみせながら、ゆっくり通り過ぎる様は、まさに仁王様が通り過ぎた・・・と私は思った。
私の妄想の何もかもスキャナーされる思いで、冷や汗ぎみに緊張したことを覚えている…。
辞書によると、『仁王』とは、忿怒の形相で仏敵を払う守護神・・・とある。
それもあるであろうが、馬骨的には、むしろ『仁=慈悲』で、門をくぐるにあたり慈悲心の喚起であり、それ以外の妄想をかいている輩は通させない、という強い表現であるように思う。
実際、禅道場での修行の一切は、その一点に向っていて、他の一切については、一喝で妄想を打ち砕く・・・という具合であった。
昨今、『パワハラ』をはじめ、様々な『ハラスメント』が問題視され、弱い立場の人々を救済する機運が高まっているのは良いことであると思うが、『いじめ・嫌がらせ』というのは、残念ながら人間の本質的な弱い面の発露であり、ある程度は社会的なシステムで制御できるかもしれないが、それは永遠なものではなく、いつ何時システムが作動しないときにはもろくも元の木阿弥…というのは歴然で、人間の本質を捉えつつ、より根本的な解決策・・・ということで、仏道の門には『仁王様』が立っている、という逆説的な発想からできたシステムなのだと思う。
禅道場では、初心者にとって『パワハラ!』って思うような一喝が、まかり通る。(少なくとも私が修行した時には)、初心者だからといって、いちいち懇切丁寧に説明せずに、空気を読む事、一度習ったことは違(たが)えない、という緊張感をもって修行に勤しむよう、自然にそうなるように・・・。問題は『一喝』が『慈悲心の喚起』であり、私個人を攻撃して発せられているわけではない、という事をしっかり認識することが必要だが、そもそもそういった説明もないまま、修行が始まるので、おっちょこちょいな奴はすぐ音を上げて帰ってしまう。
そのへんの事情もあって、道場のあり様も色々変わっているようであるが、私は『仁王』システムはむしろ有ったほうが良いと考えている者だ。
小さく叩けば 小さく響き、大きく叩けば 大きく響く・・・ともいうではないか。
道場では、すべて『私の人格の向上』というような処をめざし、修行に当たるとして、娑婆は何でも有りの道場で、自己が腐臭を発していると、銀バエが寄って来る・・・という世の習わしを教えとして、清浄に自己を律し、なおかつ他の人々と共に生きるうえで寛容性を忘れないことが大事だと思う。
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