拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『手作り仏教 』by 禅

ほぼ無学に近い浅学な頭で考えるに、 

仏教の三法印〜諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・・・の内、『諸法無我』というのが最大の問題であり、仏教を理解するうえでネックとなっているとした時、そこを工夫に工夫を重ねた仏教徒たちは、そこを何とか解決しようと、平安時代には、最澄(真言宗)や空海。

鎌倉時代では法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)・・・と各宗祖による仏教宗派が乱立(?)し、当時の時代的荒廃に苦しむ衆生を救済せんと果敢に活動を開始し、今日における日本仏教の基礎を築いたとは言えるであろう。

 

その時点で仏教はすでに、各宗祖による『手作り仏教』というふうに言え、それこそが仏教が『大乗仏教』である所以(ゆえん)であると、私などは考えるが、その後の仏教徒の活動を観るに、やはり際立っているのは『一休』さんや、『良寛』さんなど、『禅僧』の活躍が目立つし、近現代では私的には『鈴木大拙』を外して仏教を語れない気がしている。

 

日本の伝統文化に『禅』が与えた影響は計り知れないものがあったが、明治以降『仏教』自体が大きく衰退したとき、『鈴木大拙』が英語で、日本に『禅』のあることを知らしめ、それが日本人が独自に育んできた仏教的『尊厳性』回復に火をつけた結果、私のような禅・馬鹿も出てきたのであろう。

それはともかく、『一休』や『良寛』などの禅僧が独自のスタイルで日本文化に強く影響を与えた原因として、禅の原理【不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏】があるだろう。

そこには、仏性の『観自在、観世音』の機能が各禅者に働いた結果、各個人の個性が開花する形で、その時代と境遇が織りなす佛華を咲かせたのだと思う。

だから、そういった意味で、禅者がその生き様で表現する仏教は、すべからくその人独自のモノであり、それを私は『手作り仏教』・・・というわけである。

またそこに、大乗仏教の『大乗』たる所以もあって、大乗が『沢山乗れる…』というだけでなく、『どんな時代的変化にも対応する…』という意味も最初から込められていたであろう。

 

『科学』の時代になれば、仏教は『華覚』となり、物理学であれば『佛理覚』となって『人間性』探究の点では、何よりも先駆けて『般若智』を示した事を東洋人は自覚すべきである。

 

 

 

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