拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

覚醒プログラムとしての『禅』

『禅とは何か?』・・・禅者の端くれとして、私は年初に当たりこの『問』を私自身に発しなければいけないのだと思う。

 

同様なタイトルの書物をこれまで何冊か読んだであろうが、役に立っているのか?どうか?

私の実感としては、自身の体験を反芻、精査し、自己の熟成具合を例えば般若心経などを読んで腑に落ちる度合い、あるいはごく日常的な出来事の中で行った選択や判断から、直観にゆだねる・・・というようなものであろうか。

私のようなズボラな者は、我が愚脳が下す判断に任(まか)しているわけで、『いちいち考える』のとは違い、そこはブルース・リーの『考えるな、感じろ』の名台詞そのままであった。

 

『禅』という名称は、全世界的(?)に普及している感があるが、現実的には本格的に禅修行した人というのは、実に稀であるとい言う事を私たちは案外忘れがちであると思う。

 

私自身、足掛け10年の歳月を居士という立場で禅の修行に明け暮れたが、その修行で実感したことは、『己の不甲斐なさ』ばかりであったので、禅が私に及ぼした影響力を正しく評価することが出来ず、正しくない謙遜によって禅の評価を誤って認識していたところがあったのではないかと思う。

ただこの歳(73)になってみると、私の行った禅寺(円覚寺)での禅修行というのは、完成された『仏性に向けての覚醒プログラム』全開の中での修行であった・・・とつくづく思う。

 

一般的に『禅修行』というと『坐禅』のことだけがクローズアップされ、私の場合毎週一泊の土日坐禅会が中心であったが、寝食、作務、経行、夜坐、読経、老師の提唱、和尚や雲水の激励の言葉などなど坐禅の合間に受けた数々の教えが熏習(知らぬ間に身につく事柄)となって修行の糧となっていたことを、修行者は忘れてはならない。

私は、坐禅して『無』に向き合っていた・・・とずーっと思い込んでいた。というのは禅の原理として『不立文字・教外別伝』というのがあったわけだが、何の何の、禅修行には『般若心経』をはじめ『白隠禅師坐禅和讃』とか『四弘誓願』など耳にタコができるほど読まされ、当時は意味などさっぱり解らなかったし、教えてもくれなかった。

しかしそれらの事は、仏教思想の真髄を知らずのうちに私の愚脳に叩き込む『行』であったとつくづく思い、今更ながら有難い・・・と目出度い私は感謝するのだ。

 

1月の元日と2日に連続して映画『国宝』を観たが、歌舞伎界の厳しい修行のシーンと比べると禅修行の方は、その成果というのが、可視化しにくい分だけわかりにくいが、『坐』の姿勢とか呼吸、それに伴う心境・・・というような当たりに成果が滲み出ることは、先輩の修行者を観て感じたことを思い出しながら、この映画をみた。

 

     昨年の11月にスイスはバーゼルでみた『草間弥生』作品より

 

 

 

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