拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

馬骨『禅定』論 …

 禅修行で最も大切な心構え、三学と言われている『戒・定・慧』・・・というもの。

 

私自身は、このことがあるのを禅書で学んだような気もする。

現場である寺では、警策を持った和尚が坐禅している私たちに『坐禅が終わって、立ち上がった瞬間に、せっかく身についた定力がポシャってしまうようだと、どうもならんぞ』的な言いようで叱咤激励されたことが、何度かあったことを覚えている。

それで、まぁ『禅定』というものが、坐禅によって培う『不動心』のようなものか…と、解釈し、もっともであると思いながらも、それってどういう状態であるのか・・・? 

よくわからん状態で坐禅したものだ。

 

Chat君によると

『禅」はサンスクリット語 dhyāna(ディヤーナ) の訳語で、

  意味は 深い瞑想・心を集中させること。
「定」は samādhi(サマーディ) の訳語で、

  心が散らばらず、安定して一つに定まる状態 を指す。

  だから「禅定」とは深い瞑想によって心が完全に安定した状態。』

・・・とのことで、『深い瞑想によって心が完全に安定した状態』

 

そもそもこの『三学〜戒定慧』というのは、あとから誰かが体系化した哲学ではなく、初期仏教の修行の骨格そのものであったという。

- 戒 〜 環境を整える
- 定 〜 心を静める
- 慧 〜 真理を見る

ということで『禅修行』そのものが、この三学にそって行われていることがわかる。

なかでも『禅定力(ぜんじょうりき)』というのが大切であり、最も重要な事項であるとは知りながら、それを体現するところまでゆくのは容易ではない。

と、いうようなことも、実際に坐禅を長年しなければ実感できない事だ。

 

こういった所に『禅』の難しさがあるのだろう。わけ解んない処を受け止めたうえで坐禅を続ける・・・という行為は、普通の神経ではやってられないものだ。

 

『戒・定・慧』の『定』が定まった時、『慧』か開花し、『慧』に目覚めた時、『定』の大事なことに痛感し、仏教が『慈悲と智慧』であることが解るのだろう。

 

 今年正月にパリに行った時、ある博物館でやっていた北斎の『波』についての探究動画より

 

パリという西欧において、今だに『北斎の波』を探究している姿勢に出会うのは、非常に興味深い・・・というか、もしかして『禅定』に魅せられているのだろうか。

 

 

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