拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『予次元』・・・観

私の中では、『考えるな、漢字ろ』は遥かに昇華し、『考えるな、観じろ』となっている。 

 

観自在にせよ、観世音菩薩にせよ、何を『観』じているのか?

そのへんを探究するうちに、『予次元』観という、我ながら『蛇足』と思われる新造語を作ってしまった。それでなくとも、仏教や禅周りでは、ワケのわからん佛語で溢れているに…。

 

今年の2、3月と最も寒い新春に、我々夫婦は『奈良巡礼』を果たし、スイスに帰国し4月に友人を訪ねて首都のベルンへ行った際に、友人宅から近いということで、スイス出身の有名な画家パウル・クレー美術館を訪れた時に、それまでは感じたことのない違和感を強く感じたことを覚えている。

日本での『寺巡礼』の余韻というのが、冷めなかった為なのか… 『パウル・クレー』の作品に対して何の感応も呼び起こさない私に、私は非常に驚いたのだ。

 

そこにはもちろん、『寺巡礼』で鑑賞した数々の仏像等と、パウル・クレーの作品とを比較する気持ちすら無い私であったが、仏像があり、絵画作品が私の眼の前にある時、そこには鑑賞と干渉が私の内側で勝手に作用するわけで、そのときにあまりの次元の違い・・・の有り様というようなモノを感じたのだと思う。

 

そういうような事があってから、その違いとは何であるのか・・・と考えるうちに『予次元』というような言葉が私の中から湧いてきたのであろうか。

 

このブログ記事を書くにあたり、ウィキペディアで『パウル・クレー』を調べると

*「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張。

*墓石に「この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」と、クレーの言葉が刻まれている。

・・・とのことだが、私が観ようする『予次元』とはまた別の視点であったのであろうか。

 

もし、パウル・クレーが石庭を観たならば、彼の絵にも『予次元』が描かれていた…?図

 

 

 

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