『命』という字に込められた真意は、『佛理覚』による『漢字方程式』で解くほかない…。
私たちは、『一つ叩き』=『命』という『音』と共に生まれた・・・と佛解読。
であるから、私たちの『DNA=Dignity・Nature・Absolute』は、『音』の解明に人生をかけて、これを探求する『意伝子』に生きるわけだ。
我らが釈尊はそれを明らかに『観音』したゆえに、『天上天下唯我独尊!』と宣われた。
私は、2017年に伏見稲荷大社で鳥居を観ることで、『開』の字に開眼、『漢字方程式』があることに気が付いたが、『開』の字の『門』が寺、『⛩️』が神社であると観た時、まさに神仏習合の形が『開』で、これが鍵となって『結界』や『悟り』を解明するのではと思ったわけだ。
その後、この『漢字方程式』のおかげで、私の『佛理覚』は深まったと思う。
神社では『柏手』、寺では『合掌』・・・これは『佛理覚』の『重ね合わせ・もつれ』による『生"命"の音』への欲求、人間の本能的行動で、その真意は『命の音』への回帰ではなかろうか。
何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる (西行)

『貰った背広』というタイトルの自撮像・23歳の時、助手として卒業した写真学校に就職する際に、先生の一人が私に背広をくれ、それを記念して撮った写真。
今思うと、写真学校に行き、自分の写真を撮る・・・行動自体が、すでに『生"命"の音』を探る旅路についていたが、当時は何も解らなかった…。
このタイトルの一連の自撮作品で、私は『写楽』という写真雑誌主催のコンクールで音楽家の『坂本龍一』賞を頂き、その時直接話す機会があり、彼が『生命の音』・・・ということにこだわっていたことが、強く印象に残ったことを覚えている。私は彼と同じ年齢(32歳)であったが、『生命の音』を探究する姿勢に、なんだか解らなかったが、『流石〜』と恐れ入った思い出がある。
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